『善きサマリア人のたとえ』から学ぶ本物の愛について【10分で解説】

ゴッホによる「善きサマリヤ人」

こんにちはTaroです。
突然ですが、皆さんはアメリカやカナダで施行されている「グッド・サマリタン法」という法律をご存知ですか? また、欧米の映画などに「グッド・サマリタン」とかいう病院名が登場したりして「グッド・サマリタン」という言葉には、何か聞き覚えがあるかもしれません。また、ゴッホ、レンブラント、ドラクロワなど著名な画家たちもこのテーマで絵を描いています。
救急救護ちなみに、「グッド・サマリタン法」というのは、急病人などへの救済行動が失敗しても罪に問われないという法律です。この法律のない日本で、救護者がたまたま医師だったために、善意の行動が報われず急病人がなくなってしまった後、逆に遺族からその措置を巡って訴えられてしまったといったケースが実際にあったようです。また、飛行機で急病人が出てしまったときに自分が医師であることを名乗るかというアンケートで、手を挙げると答えた医師が40%にとどまったという話もあったそうで、傷病者救護を促進するのには、この法律はある意味効果がありそうですね。実はこの法律の名前は、イエス・キリストによるたとえ話からきているのです。
今日はその『善きサマリア人(グッド・サマリタン)のたとえ』をご紹介しようと思います。

 


Taro
Writer ProfileTaro

プロテスタント教会の信徒で新生宣教団の職員。前職から印刷に関わり活版印刷の最後の時代を知る。 趣味は読書(歴史や民俗学関係中心)。明治・江戸の世界が垣間見える寄席好き。カレー愛好者でインド・ネパールから松屋のカレーまでその守備範囲は広い。

たとえ話とは

たとえ話とは、何か伝えたいことをわかりやすくするために『架空の出来事に置き換えてする話』と言えると思います。イエス・キリストも神の国の奥義を伝えるためにいくつものたとえ話をされました。語る相手は、弟子たち、群衆、そして律法学者など宗教的指導者と言われる人たちなど様々でしたが、その人たちが理解しやすいように、農夫、漁師、羊飼い、日雇い労働者、取税人、主人、しもべ、王、父親、息子、金持ちと貧乏人などを登場させ、日常生活の様々な出来事を題材に語っているのが特徴です。

 

『善きサマリア人のたとえ』はどういう状況で語られたのか

『善きサマリア人のたとえ』とは、ルカの福音書10章に記載されているイエス・キリストによるたとえ話です。
どういう状況で語られたのでしょうか。まず、聖書から見てみましょう。

するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の命が受けられましょうか」。
彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。
彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。
彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。
すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。
(ルカの福音書10:25~29)

律法学者 律法学者とは旧約聖書の学びに専念する学者で、当時のユダヤ人の中では指導的立場にあった人たちです。この律法学者は、イエスが権威ある教えをなし奇跡のわざを行っていたため、預言者のひとりが復活したとかエリヤが再来したのだとの噂を聞き、イエスが何者かを確かめにきたのではないかと思われます。
その質問は端的なもので「何をしたら永遠の命が受けられるのか」というものでした。
イエスが「あなたはどう思うか」と逆に問われると、「神を愛し、自分自身のように隣人を愛すること」と模範解答で返しました。
そしてイエスが「あなたの言うことは正しい。それを行いなさい」と言われると、彼は自分の正しさを示そうとして「では、隣人とはだれのことか」とイエスにくいさがっていきます。そこで語られたのがこのたとえ話でした。

 

『善きサマリア人のたとえ』のあらすじ

イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。
同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。
ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。
この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。
彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。
(ルカの福音書10:30~37)

お話は以上です。中身をたどっていきましょう。

祭司とは

設定はエルサレムからエリコの道中、旅人が強盗に襲われ半死半生で倒れている状況です。
最初に通りかかったのは祭司でした。エルサレムには神殿がありますから、そこでの御用の帰りでしょうか。当時エリコには聖職者の住まいがあったと言われています。また、エルサレムからエリコへの道のりは起伏のある下り道で見通しも悪く、強盗の被害もあった地域だと言われています。
さて、この祭司というのは、ユダヤ教の礼拝を司る聖職者ですね。人々の罪の贖い(あがない)をするためにいけにえを捧げ、神と人とをとりなす役目をもっていました。もともとは出エジプトでモーセとともにユダヤ人を導いたレビ人アロンの子孫が継承したと言われています。その祭司は道の反対側を通り過ぎて行ってしまいました。

レビ人とは

通り過ぎるレビ人次に通りかかったのはレビ人でした。レビ人はユダヤ人の一部族ですが、ヤコブの12人の息子の一人であるレビを祖とする人たちで、嗣業地をもたず主ご自身を嗣業としていたため、イスラエルの12部族からは取り分けられ、もっぱら主の御用(聖所)に仕える役割を担っていました。上述のように祭司もレビ人の中から立てられています。神殿ではレビ人は祭司に仕えるという関係性でした。
この人もまた、道の反対側を通り過ぎて行ってしまいました。

サマリア人とは

最後に通りかかったのが、サマリア人でした。サマリア人とはイスラエルのサマリア地方の住民で、その昔北イスラエル王国がアッシリアに捕囚となった後、アッシリアからの入植者との間に生まれた混血の子孫からなる民族でした。旧約聖書のユダヤの神を信仰しながら異民族の血と異教の風習も受けていたと思われていたため、神の選民と自負するユダヤ人はサマリア人を忌み嫌い、交際しなかったばかりかその地方を避けて旅行をしていたとさえ言われています。
そのサマリア人の旅人が、ユダヤ人と思われる怪我人を見てあわれみ、応急手当をした上で自ら宿屋に運び介抱してやったとあります。翌日、宿屋の主人に相応の費用を渡して病人を任せ、不足なら帰りに払うからと言いおいて出かけて行ったというのがイエスの語ったお話でした。

北イスラエル王国については、こちらの記事をご参照ください。

 

『善きサマリア人のたとえ』から見えるイエスのメッセージ

レンブラントによる「善きサマリヤ人」
レンブラントによる「善きサマリヤ人」

そこで、イエスが律法学者に語ったのは、「この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣人になったと思うか」ということでした。彼は「その人に慈悲深い行いをした人です」とサマリア人という名前を出さずに答えます。サマリア人という名を出すことも嫌っていたのでしょうか。
イエスは「行って同じようにしなさい」と言い、律法学者とのやり取りが終わっています。
律法学者がそれをどう受け止め、その後どのように生き方に活かしたのかにはふれていません。
しかし、このやり取りの中に神様がどういうお方で、また我々に何を願っておられるのか? イエスのメッセージが見えてくるような気がします。

愛するとはどういうこと?(本物の愛とは)

このお話のテーマは「」だと思います。
この質問を投げかけた律法学者も、人が神に喜ばれ、受け入れられるために必要なことは「愛」だということは知っていました。つまり「神を愛し」、「隣人を愛する」ことですね。
イエスはその答えを評価した上で、それが言葉だけのことではなくて、具体的な事柄であることを教えられたのだと思います。
登場人物が面白いと思います。祭司もレビ人もユダヤ人のエリートであり特別な存在でした。人々の罪の贖いのために奉仕する聖職者で、汚れを嫌っていました。怪我人の反対側を通り過ぎて行ったのも、触れると汚れを身に受けることになり、本来の彼らの役目に抵触する可能性があったと言われています。ある種理由はあったのです。彼らが怪我人を助けようと思えば自らの仕事や立場に一時的とはいえ不利益を被ることとなり、大きな犠牲を伴なったことでしょう。これは架空の話ですが、離れていくとき彼らはどんな気持ちだったのでしょうか。
他人の痛みに共感一方でこのサマリア人には、そのような縛りはなかったとは思いますが、やっていることは中々簡単に出来ることではありませんよね。行きずりの怪我人に関わることで、時間的、金銭的に犠牲を払っています。そしてその動機は「気の毒に思う」というあわれみの心でした。
これら、彼らの行動の違いから、「愛」とは、自分の都合に目をむけることではなく、他人の痛みに共感して、その必要に犠牲を払って応えていくことと言えるようですね。

あなたの隣人とは

ところで、3人目の登場人物ですが、なぜイエスはサマリア人を設定したのでしょうか。
おそらく、神に近いとされたユダヤ人の聖職者と、異邦人に近いとされたサマリア人を登場させることで、「愛」に身分や国境は関係ないことを伝えたかったのではないでしょうか。
そして、助けを必要としている人が自分の「隣人」であるかないかを身分や国籍で自分勝手に規定してはならないことも教えておられるような気がします。

『善きサマリア人のたとえ』から知る神の愛

イエスはこのたとえ話で、サマリア人の姿から本当の「愛」について示されたのですが、その究極の形は、ご自身の十字架の愛ではないかと思います。

  • イエス・キリストは私たちの必要に関心をもたれ、あわれみの心で接してくださる。
  • イエス・キリストは私たちの罪を背負って犠牲の死を遂げてくださった。それにより私たちの本当の必要である、罪の赦しと死への勝利を得させてくださった。
  • イエス・キリストの救いは国籍、身分、立場と関係なく与えられる。ご自身も神の右の座から地上にくだってその身分を捨てて愛してくださった。

まさに神様はひとり子イエスを私たちの救いのために地上に送り、その愛を示してくれました!

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まとめ

いかがでしたか。
神様は愛のお方。そして私たちにも互いに愛し合うことを願っておられます。
きっとあなたの愛を必要としている「隣人」がいるはず。
お互い、小さなことでもできることから行っていきたいですね。
では。

あなたの手に善をなす力があるならば、これをなすべき人になすことをさし控えてはならない。
(箴言3:27)

『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたのところに参りましたか』。すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。
(マタイ25:37~40)

 

イエスのたとえ話については、こちらの記事もお読みください。


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