カインとアベル~人類初の殺人と神の憐れみによる希望~

       
  • 2025/11/6
  • 最終更新日:2025/11/6

「カインとアベル」の名前は、兄弟の嫉妬と確執を描いた日本と韓国のテレビドラマのタイトルにもなっているため、どこかで聞いたことがあるのではないでしょうか?
聖書の最初の書は創世記です。その4章に記されているカインとアベルは、実は人類の始祖アダムとエバから生まれた人類初の兄弟です。
しかし、残念ながら、人類初の殺人がこの二人の間で起こったのです・・・。
今回は、「兄弟殺し」、「嫉妬による犯罪」の代名詞・象徴となったカインとアベルのストーリーを紹介し、そこから学べる教訓と現代への適用を解説していきます。
ぜひ、最後までお読みください。


Kenji
Writer ProfileKenji

クリスチャン家庭に生まれ育つ。趣味は映画、ハイキング、ボードゲームなど。 神学校を卒業後、牧師として働いてきました。現在はフリーランスのWebライターとして働きつつ、神様の愛を伝えるために様々な活動をしています。イエス様といっしょに生きる素晴らしさをお分かちできたら、うれしいです!

 

カインとアベルの物語

カインとアベルのストーリーは、旧約聖書の創世記4章1-16節に書かれているので、口語訳聖書を引用しながら、説明していきます。

人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで言った、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。
創世記4:1

最初の人アダムとその妻エバが罪によって堕落し、楽園を追放された後、二人に息子カインが生まれました。
カインという名前には、「形づくる」という意味があります。
アダムとエバは、神がカインを造り、子どもとして与えてくださったことを喜んだのでしょう。

彼女はまた、その弟アベルを産んだ。
創世記4:2

アベルには、ヘブライ語で元々「息」という意味があり、そこから「儚(はかな)さ」も意味するようになりました。
若くして亡くなったアベルの人生を象徴するような名前です。

アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。
アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。
しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。
創世記4:2-5

カインとアベルの供え物
マリオット・アルベルティネッリ
「カインとアベルの供え物」(1515年頃)

カインは畑を耕す農夫となり、アベルは羊を飼う羊飼いとなりました。
ある時、二人は神様にささげ物を持っていきました。
カインは畑で採れた作物を、アベルは羊の初子の中から最も良いものを。
しかし、神様はアベルとそのささげ物を喜んで受け入れましたが、カインとそのささげ物は受け入れなかったのです。
そのためカインは怒り、顔を伏せました。

そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。
正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。
創世記4:6-8

神はカインに対して警告しましたが、カインはそれを無視し、弟アベルを野原へ誘い出して、殺しました。
これが聖書に記された最初の殺人です。
殺人を犯したカインに神は語りかけます。

主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。
主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。
今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。
あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」。
カインは主に言った、「わたしの罰は重くて負いきれません。
あなたは、きょう、わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう」。
主はカインに言われた、「いや、そうではない。だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう」。そして主はカインを見付ける者が、だれも彼を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。
カインは主の前を去って、エデンの東、ノドの地に住んだ。
創世記4:9-16

カインとアベル
ウィリアム・ブレイク
「神の怒りから逃れるカイン」(1805–1809年)

神はカインに、「お前の弟アベルはどこにいるのか。」と尋ねました。
もちろん、全知全能の神は起こったことの全てをご存じでしたが、カインに自分の過ちと罪を認め、悔い改める機会を与えたのです。
しかし、カインは自分の罪を隠すために嘘をつきました。
「知りません。私は弟の番人なのでしょうか。」
そのため、神はカインを罰し、カインは地上をさまようこととなりました。
しかし、憐れみ深い神はカインに一つのしるしを与え、彼が殺されないようにされたのです。
こうして、カインは神の前を去り、やがてエデンの東に住み始めました。
その後、カインの子孫は増え、その中から家畜を飼う者たち、楽器を奏でる者たち、刀鍛冶たちが出て、文明が始まっていきました。
その一方で、(兄弟を殺したカインの)その子孫には、妻たちの前で人殺しを誇るレメクのような粗暴な人物も生まれました。

レメクはその妻たちに言った、「アダとチラよ、わたしの声を聞け、レメクの妻たちよ、わたしの言葉に耳を傾けよ。わたしは受ける傷のために、人を殺し、受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す。」
創世記4:23

こうして、アダムとエバの罪による堕落は、単に楽園から追放されただけで終わらず、実の息子たちの間での人類初の殺人、そして殺人を誇る子孫へとその悪影響が続いていきました。
しかし、暗闇しかないような状況の中、神はアダムとエバにもう一人の息子セツを与えました。

「アダムはまたその妻を知った。彼女は男の子を産み、その名をセツと名づけて言った、「カインがアベルを殺したので、神はアベルの代りに、ひとりの子をわたしに授けられました」。
セツにもまた男の子が生れた。彼はその名をエノスと名づけた。この時、人々は主の名を呼び始めた。
創世記4:25-26

「主の名を呼ぶ」とは、神を公に礼拝することです。
神がアダムとエバに与えたセツとその子孫によって、神を礼拝することが始まりました。
そして、やがてセツの子孫から、人類を罪から救う救い主イエス・キリストが生まれることとなるのです。
創世記が語るカインとアベルのストーリーは、人類初の殺人が兄弟の間で起こるという罪と悲惨の物語ではありますが、その最後には憐れみ深い神が与えた一筋の希望の光が差し込んでいるのです。

 

カインとアベルのストーリーから学べる教訓とは?

①神は心を見る

カインとアベルの物語の読者が抱く最大の疑問は、「なぜ神はアベルのささげ物を受け入れ、カインのささげ物を受け入れなかったのか?」でしょう。
創世記4:7で、神が怒るカインに対して、「正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。」と言っていることから、カインが正しいことをしていなかったためだと分かりますが、一体カインはどんなことをしでかしてしまったのでしょうか?
それが問題です。
2つ考えられます。

a)アベルは神が求める供え物をささげ、カインはそうではなかった

救い主イエス・キリストが来られる前、きよい神と罪人となった人間が交流するためには、動物犠牲をささげて罪の赦しを得ることが不可欠でした。
アベルもカインも、神の前で罪人である点は全く同じだったのですが、アベルは神が求めた供え物をささげたために受け入れられたのです。
そして、実はその動物犠牲は、やがて来られる救い主イエス・キリストの十字架の犠牲を予め表すものでもありました。
アベルは、神が求められた動物の犠牲をささげただけでなく、いつか来られる救い主を信じる信仰をもってささげたので、神に受け入れられたのです。
一方のカインは、神が望んでおられる供え物を知りながら、神の望むものではなく、不信仰にも自分が捧げたいものを捧げました。作物の供え物は、人間の努力で神に受け入れられ、救われようとする行為の象徴です。そのため、カインの捧げ物は神に顧みられませんでした。

b)アベルは真心から神にベストをささげ、カインはそうではなかった

アベルは羊の初子の中から肥えた羊、つまり、最も上等な、良い羊を持って来て、神にささげました。
アベルは信仰をもって、神に真心からの供え物をささげたのです。
新約聖書のへブル人への手紙11章4節にも、こう記されています。
「信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。」
創世記4章には、カインが悪い作物をささげたとは書かれていませんが、先ほども引用した4:7によると、カインは正しいことをしていなかったということですので、おそらく適当に供え物を選び、とりあえず収穫物を持ってきたような姿勢だったのかもしれません。
聖書全体の教えに照らすと、神はささげ物自体よりも、ささげる本人の「心」をご覧になる方です。
神に最高の羊をささげたアベルは、神を信じる信仰、神への感謝、そして神を喜ばせたいという思いでそうしたのでしょう。
一方でカインは、神が求めている供え物を無視した上、形式だけの行為として、仕方なく、神に供え物をささげたのだと思われます。

②嫉妬心

カインとアベル
ティツィアーノ
「カインとアベル」(1542–44年)

カインは自分のささげ物が受け入れられず、自分が認められなかったことで強く心を閉ざし、弟アベルを妬むようになりました。
神は「怒りにとらわれてはならない。罪がすぐそばにある」と警告されましたが、カインはその言葉に耳を貸しませんでした。その結果、弟を殺すという大きな罪に至ったのです。
この姿は、現代の私たちにも重なります。
私たちも他人の成功や評価を見て、「自分が劣っている」と感じてしまうことはないでしょうか。
その思いが強くなると、他の人が認められ、成功したことを素直に喜べず、妬みや敵意に変わってしまうこともあります。
カインの姿は、その危うさを私たちに示しています。

③人間関係における無関心、無責任

神が「弟はどこにいるのか」と問われたとき、カインは「私は弟の番人でしょうか」と答えました。
カインのこの言葉は、本来愛し合い、助け合うべき弟に対して何の責任も自分にはないと言い放つ言葉でした。
愛の神に似せて、互いに愛し合う関係に生きるように造られた人間の口から、本来出るはずのない言葉だったのです。
しかし、神がカインに語った言葉は、私たちに問いかけてもいます。
「あなたは隣りにいる人に関心を持っているか。
困っている人を見て、知らぬふりをしていないか。」と。
誰かを思いやること、支え合うこと。
これこそ、神が私たち人間に望む生き方です。
カインの答えとは反対に、私たちは「はい、私は隣人を大切にします」と神に答えられる者でありたいものです。

 

現代への適用

①世の罪を取り除く神の小羊、救い主イエス様の十字架の犠牲

アダムの罪による堕落以降、私たち人間が聖なる神と交流するためには、罪の赦しを得ることが不可欠です。
聖書が私たちに伝える喜ばしい知らせは、アベルの動物犠牲が予め表し、セツの子孫から生まれた救い主イエス・キリストが私たちの罪を贖うために十字架で自らを犠牲としてくださったことです。
イエス・キリストこそ、世の罪を取り除く神の小羊です。
神がイエス・キリストの十字架のゆえに私たちの罪を赦してくださるので、どんな過ちを犯しても、私たちにはいつでも新しくやり直す機会と希望があります。

②真に神に受け入れられるのは「形」ではなく、心からの信仰

神が喜ばれるのは、ささげ物自体ではなく、私たちの心です。
礼拝や献金を良い習慣として確立することは大事ですが、同時にいつのまにか義務感から形式的に行なっていないかどうかを自らに問うてみることは大切なことかもしれません。
忘れがちになってしまうことですが、神が私たちに日頃、どれだけ多くのものを与えてくださっているか、特に「イエス・キリストによる救い」というかけがえのない富を与えてくださっていることを改めて考えてみましょう。

③嫉妬の持つ破壊的な力

カインとアベルのストーリーは、私たち人間の中にある嫉妬や劣等感がどれほど破壊的な力を持っているかを教えています。
日常生活の中で、私たち自身も時に、「なんであの人ばかり祝福されるんだろう」と思ってしまうことがあるでしょう。
仕事での評価、教会での人間関係、家庭の中でも、比較によって嫉妬や怒りが心を占めることがないでしょうか?
人類初の兄弟カインとアベルの物語は、そんな私たちのありのままの心を映し出してくれます。
嫉妬や怒りに負けず、他人の成功を妬むのではなく、一緒に喜べるように、神の助けを祈っていきましょう。
イエス・キリストの十字架において神が示してくださった限りない愛で、私たちの心が満たされることを求めていきましょう。

④信仰の兄弟姉妹、隣人への責任

「私は弟の番人でしょうか?」というカインの言葉は、私たちにも突きつけられています。
家族、同じくイエス・キリストを信じる信仰の兄弟姉妹、職場や学校、地域社会などの人間関係――私たちは「自分には関係ない」と突き放したり、無関心でいたりするのではなく、他の人に関心を持ち、人とのつながりを大事にし、祈り合い、支え合うように、神から招かれているのです。

 

まとめ

ブグロー「最初の嘆き」(1888)
ウィリアム=アドルフ・ブグロー
「最初の嘆き」(1888)

最後までお読みいただき、ありがとうございました。いかがでしたか。
この記事では、人類初の兄弟であるカインとアベルのストーリーの内容、そこから学べる教訓と現代への適用をお伝えしてきました。
人類初の殺人が起こったカインとアベルの物語は、罪による堕落とその状態の深刻さを私たちに教えると同時に、その罪の性質を引き継ぐ私たちへの神の憐れみ、そしてその現れとして、私たち人類を罪から救う救い主イエス・キリストを指し示しています。
創造主は、私たち人間がご自分と共に再び生きられるように、ご自分の御子を救い主イエス・キリストとしてこの世に送り、私たちの罪の身代わりに十字架で犠牲としてくださいました。
イエス・キリストのおかげで、私たちがどんな過ちや失敗をしても、いつでも罪の赦しと新しくやり直す機会が与えられているのです。
あなたがイエス・キリストを信じて、創造主と共に生きる幸いな人生を歩むことを心から願っています。
聖書には、カインとアベルの物語の他にも、たくさんの魅力的なストーリーが含まれています。
もしこの記事を読んで聖書やイエス・キリストに関心を持たれたなら、ぜひ、他の記事や聖書を読んでみてくださいね。


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