黙示録の「7つの教会宛の手紙」 ①エペソの教会へ書き送れ

       
  • 2025/6/5
  • 最終更新日:2025/6/6

小アジア7つの教会の地図こんにちは、ハトコです。
皆さんは聖書の「黙示録」をご存知ですか? 黙示文学といわれ難解な書と言われています。けれども、時代背景や、書かれているパターンなどを読み解くと、意外と理解できるものです。
今回は、比較的わかりやすい「7つの教会宛の手紙」を取り上げたいと思います。
使徒ヨハネがイエス・キリストから啓示を受けて、当時の小アジア(現在のトルコ)にあった7つの教会に当てた7つの手紙です。これはイエスからの啓示ですから、この黙示録の7つの手紙は、イエス様ご自身からの手紙ということができます。
イエスは7つの教会に何を書き送ったのでしょうか?


ハトコ
Writer Profileハトコ

牧師の家庭に生まれる。田舎でおとなしい子供時代を過ごしたが、高校卒業後に大阪に住んだことで性格が外交的に変わる。大阪の教会で牧師が1か月にわたり語ってくれた十字架のメッセージを聞いて明確に聖書の福音が解るようになった。好きなことは「掃除」「イエス様に従うこと」。苦手なことは「整理整頓」「ホラーやスプラッター系全般」。(「掃除」と「整理整頓」は別物です!)。新生宣教団職員。

 

手紙の構成

7つの手紙のパターン

この7つの手紙は決まった8つのパターンで書かれています
①〇〇な方が言われる ⇒イエスがどういう方かという紹介です。
②あなたが〇〇だということを知っている ⇒受け手の状況を語っています。
③賞賛 ⇒イエスからのお褒めの言葉。(無いものもある)
④叱責 ⇒悪いところの指摘。(無いものもある)
⑤勧め ⇒叱責に対する対応の勧め。
⑥再臨の約束 ⇒イエスが再び来られる時のことが暗示されます。(無いものもある)
⑦報いの約束 ⇒⑤の勧めに従った者が最終的に受け取る報酬の約束です。
⑧決まり文句 ⇒「耳のあるものは~聞くがよい」と、すべての教会に語られています。

それぞれの手紙の内容が示す3つの事柄

黙示録は預言の書でもありますから、この手紙の内容は単にその当時の教会だけに書き送られたものでなく、当時から現在、そして将来に起こることも含まれています。また、その内容は教会と個人へ当てた普遍的な内容にもなっており、3つの中の②③は手紙の中に暗示されています。③は私たちにも関係する内容です。
①当時のその都市や教会の状況
②預言的な教会の姿 ※聖書解釈が違う場合もあります。
③個人と教会への適用

ではこの構成を頭に入れておいていただき、まず1番目の「エペソ教会宛の手紙」を見ていきましょう。

「エペソにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『右の手に七つの星を持つ者、七つの金の燭台の間を歩く者が、次のように言われる。
わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている。また、あなたが、悪い者たちをゆるしておくことができず、使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たちをためしてみて、にせ者であると見抜いたことも、知っている。
あなたは忍耐をし続け、わたしの名のために忍びとおして、弱り果てることがなかった。
しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。
しかし、こういうことはある。あなたはニコライ宗の人々のわざを憎んでおり、わたしもそれを憎んでいる。
耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』」。
黙示録 2章1〜7節

エペソにある教会に書き送れ

エペソ教会とは

エペソというのは「好ましい」という意味です。エペソの教会は、新約聖書の使徒行伝の18章から登場し、19章を読むと使徒パウロの宣教の働きによって大きく成長した教会であることがわかります。イエス様の直弟子だった使徒たちや、その教えを受けた信者たちによって、しっかりとした教会形成がなされていました。パウロの愛弟子であるテモテが牧会していたのがこのエペソ教会です。
では手紙の内容を8つのパターンで見ていきたいと思います。

1)〇〇な方が言われる

最初はイエス様がどういう方かという紹介です。

エペソにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。
『右の手に七つの星を持つ者、七つの金の燭台の間を歩く者が、次のように言われる。
ヨハネの黙示録 2章1節

ここには「7つの星」と「7つの燭台」が出てきます。
この星と燭台とはなんでしょうか? 答えはここにあります。

あなたがわたしの右手に見た七つの星と、七つの金の燭台との奥義は、こうである。すなわち、七つの星は七つの教会の御使であり、七つの燭台は七つの教会である。
ヨハネの黙示録 1章20節

マナプロジェクト『ザ・マジェスティー』より
マナプロジェクト『ザ・マジェスティー』より

星は「御使いたち」とありますが、これを「その教会の担当天使を指す」という人と、言語の意味が「メッセンジャー」とか「使者」という意味もあるので、「各教会の指導者を指す」という見方もあるようです。はっきりとはわからないので、筆者は分からないことは天国に行って聞いてみようと思っています。
燭台ははっきりと書いてあるので間違いなく教会のことです。そして7という数字は神の完全数と言われていますので、この「7つの教会」は単に7つだけでなく、教会すべてを指しているとも言えます。
これは、イエス様が7つ(すべて)の教会の間で活動されているということと、その教会の責任者をしっかりと掌握し、教会の主権を握っているということを表していて、このエペソ教会には確かにイエスの主権と臨在があったということがわかるのです。

2)◯◯だということを知っている

2番目は受け手の情報です。エペソ教会はどのようにイエス様の目に映っていたのでしょうか。

わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている。
ヨハネの黙示録 2章2a節

使徒パウロの愛弟子であるテモテが任されていたのがこのエペソ教会でした。新約聖書に二つあるパウロからテモテへ送られた手紙を読んでみると、実はこの教会は問題があったことがわかります。初代教会は成長していく中で、いろんな困難に直面していたのです。でもそのような中でも、エペソの教会の信徒たちは忠実に神様に仕えていました。
時にはイエス様に従うことは、労苦と忍耐を必要とします。エペソの教会の人々は、主に熱心に仕え、よく働き、多くの忍耐をしているしっかりとした教会でした。イエス様は「それを知っている、ちゃんと見ているよ」とここで言っておられます。
そしてこれに対して賞賛が続きます。

3)賞賛

また、あなたが、悪い者たちをゆるしておくことができず、使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たちをためしてみて、にせ者であると見抜いたことも、知っている。あなたは忍耐をし続け、わたしの名のために忍びとおして、弱り果てることがなかった。
ヨハネの黙示録 2章2b〜3節

エペソ教会が通った試練は、自分は使徒だと名乗る偽教師や、偽の教えが入り込んできたという問題でした。ヨハネがパトモス島でこの黙示録の手紙を書いた頃には、ほとんどの初代の使徒や弟子たちは殉教などで死んでしまって、もういなくなっていました。けれどもパウロは生前エペソ教会に対して、狼のような悪い人々が忍び込んでくることを預言して「警戒しなさい」と言っています。

わたしが去った後、狂暴なおおかみが、あなたがたの中にはいり込んできて、容赦なく群れを荒すようになることを、わたしは知っている。また、あなたがた自身の中からも、いろいろ曲ったことを言って、弟子たちを自分の方に、ひっぱり込もうとする者らが起るであろう。
使徒の働き 20章29~30節

そしてエペソにはこの後にもう一つ追加の賞賛があります。

しかし、こういうことはある、あなたはニコライ宗の人々のわざを憎んでおり、わたしもそれを憎んでいる。
ヨハネの黙示録 2章6節

このニコライ派というのは、初代教会が成長するにつれ、教会の中に指導者と信徒という階級制度を持ち込んだ教えではないかと見られています。初代教会では、それぞれの働きと責任はありましたが、それは上下関係ではありません。聖書では教会を「キリストの体」と言っています。それは教会に属している人がキリストの体を構成するどこかの部分だということです。適材適所という言葉がありますが、そのように、一人ひとりが自分の働きをするときに、全体がうまく機能して教会は成長するのです。
現代の教会の中には、ニコライ派の教えのように、強い上下関係があって、牧師が偉くて絶対的な存在だったり、信徒はただ牧師の言うことに従うだけという教会もあるようですが、それは聖書的ではないのです。そのような聖書的でないニコライ派の教えを、エペソ教会は拒否して受け入れなかったということが追加で賞賛されています。

エペソの教会の人々は、曲がった教えや偽物をしっかりと見分けて、排除することができていました。そこをイエス様は褒めておられます。そして、「疲れ果てなかった」とあるので、エペソの人々は本当に熱心で色々な問題に対しても頑張って、狼のような悪者を見極め排除し、主に熱心に仕え続けていたのです。

けれどもこの後に叱責が続きます。いったい何を叱られたのでしょうか。

4)叱責

しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
ヨハネの黙示録 2章4節

「初めの愛から離れてしまった」、これがエペソ教会に対する叱責です。この「初めの」という言葉を聞くと、「イエス様に初めて会った時」という時間的な意味だと思えますが、ギリシャ語では、その他に「何よりも最優先するもの」という質的な意味があります。そしてここではその質的なことが問われているのです。
使徒たちが建てたエペソ教会は、とても熱心で、教理も正しくしっかりしていて、見た目には非の打ち所がない教会でした。ところが、時が経つうちにだんだんとイエス様よりも、熱心に活動することの方がメインになってしまったようです。教会奉仕や行事は熱心にしていたけれども、いつの間にかイエス様との親密な関係が無くなっていったのです。
「初めの愛から離れてしまった」というのは、イエス様を優先していないということです。イエス様は、何よりも私たちと交わることを喜ばれます。それは親しい関係、友情のようなものです。イエス様は愛する弟子たちにこう言われています。

あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。わたしはもう、あなたがたを僕(しもべ)とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。
ヨハネの福音書 15章14~15節

「僕(しもべ)」と「友」の違いは何でしょうか? 僕に求められるのは、主人のために忠実に働くこと。何をしたか、Doingが求められます。でも、友だちなら、どういう関わり方、どういう関係性があるかという、存在そのもののBeingが問われます。イエス様は私たちに「あなたは私の友だ」と言ってくださっているのです。
この「初めの愛から離れてしまった」という叱責は、エペソ教会だけでなく、クリスチャン一人一人に語られているイエス様の思いでもあります。イエス様は私たちの友になりたいと願っておられるのです。あなたはイエス様と友人関係でしょうか?

そして次が、だからこうしなさい、という勧めになります。

5)勧め

そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。
ヨハネの黙示録 2章5節

ここの「どこから落ちたのか思い起こし」というところは、ギリシャ語原文の意味では「どんな高い所から落ちたかを思い起こしなさい」となっています。これはイエス様との交わりがいかに高いレベルの素晴らしさだったか、その状態を思い起こしなさいということなのです。そして今のイエス様の愛から離れてしまった状況を悔い改め、最初の関係に戻って欲しいと言われています。イエス様は、形ばかりの関係ではなく、友人のような近さで過ごし生きる関係を持ちたいのです。
でも、この熱い語りかけを聞かないで無視するなら「あなたの燭台を取り除く」と言われています。燭台というのは火を灯すものですね。神様から与えられる霊の油によって燃える教会の火のことです。
これを教会と個人に適用するなら、初めの愛から離れてしまった教会が悔い改めないなら、霊的な火が教会から取り除かれるという警告です。そして、個人的な適用では、悔い改めない人は命のある教会から切り離されると言う警告にもなっています。
私たちは、教会としてどうか、個人としてどうか、もし、私たちとイエス様との関係が薄れているなら、その関係を取り戻しなさいと、このエペソへの手紙でイエス様は求めておられるのです。

6)再臨の約束

エペソの教会には再臨の約束はありません。その理由は後ほど。

7)報いの約束

勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう。
ヨハネの黙示録 2章7b節

エペソ教会に与えられている報いは、「勝利を得る者には命の木から食べることをゆるす」という約束です。この命の木は神の国に生えていて、エデンの園に生えていた命の木と同じ、食べれば永遠に生きることができる木の実です。そしてこの約束は「勝利を得る者」にだけ与えられます。
では、「勝利を得る者」とは誰のことでしょうか? エペソ教会のように霊に燃え、正しい教理を守り、成長していく教会のことでしょうか? 答えはここに書かれてあります。

世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。
ヨハネの手紙 第一 5章5節

答えは「イエスを神の御子と信じる者」です。何か立派なことができる人、成功を収める人ではなく、ただイエス様を神の御子と信じ、自分の救い主と信じ、イエス様と親友のような関係を持つ人が、勝利を得る者なのです。とても単純な、しかし確かな聖書の約束です。

8)決まり文句

『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』
ヨハネの黙示録 2章7a節

ここの「耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。」というのは決まり文句で、パターンとしては8番目のものです。7つの教会のうち最初の3つは、報いの前に挿入されていて、続く4つでは最後に語られています。
御霊というのは三位一体の神の第3位格に当たる聖霊様のことです。「諸教会に告げること」とあるので、各教会に当てられた7つの手紙で語られたことは、世界中の全ての教会に神である聖霊によって告げられていることを示し、それを聞くようにと語られています。

 

預言的な教会

黙示録の7つの教会に対する記述は、歴史上に現れる特定の時代の教会の姿の預言でもあるという聖書解釈があります。その考え方も興味深いのでちょっとご紹介したいと思います。
この解釈では、エペソ教会は、歴史の中に現れる紀元30年ごろの「初代教会」から、紀元100年ごろまでの「使徒的教父時代(初代使徒たちの次世代)」の教会とされ、最初はイエス様への愛を中心に成長していったのですが、時間が経つうちに形式的な教会になっていった時代の教会の姿の預言とされます。
また、再臨の約束ですが、このエペソには再臨に関する言及がありません。
7つの教会のうち、最初の2つには再臨に関する言及がなく、残りの5つには再臨に関する言及があります。この1つ目のエペソの教会に宛てた手紙には再臨に関する言葉がないので、この教会の流れは現在はもう無いとされています。けれどもこの時代の信徒たちには死後に永遠のいのちをいただける約束が与えられました。

エペソ教会が示す教会と個人の型(タイプ)

聖書とパン今までのことをまとめると、エペソの教会が示している、どの時代にも見られる教会の型(タイプ)としては、「熱心で正しい教理が確立されているけれども、イエス様との愛の関係がなくなった形式的な教会」ということができます。そして、個人に当てはめると、熱心に主に仕えているうちに、いつの間にかイエス様そっちのけで、自分のポジションや働きが一番になっている人のことです。こういう教会や人は律法的にもなりやすいものです。この手紙では、そうならないよう、イエス様を「一番最優先するべき方」として、その声に耳を傾け、共に時間を過ごし、イエス様との友情関係を持つものとなりなさいと語られているのです。

 

結び

それではどのようにイエス様との時間を作るのでしょうか。それは神様の思いが書かれている聖書に親しむことと祈ることです。聖書には、イエス様が神のみ言葉(聖書)そのものであり、み言葉(聖書)は命のパンだと言われています。命のパンをいただくことで、私たちの内にイエス様が住まわれるのです。そして祈ること。祈りはイエス様との会話です。これらを習慣化することで日々イエス様との関係が深くなります。毎日、イエス様との時間を持つことが私たちの何よりの最高の楽しみになるのです。
あなたがクリスチャンであるならば、このエペソ教会へのメッセージを自分に当てはめてみてください。もし、イエス様をまだ知らない方は、ぜひ教会に行って聖書を開いてみてください。
あなたの知らない素晴らしい世界が待っています。

ハトコでした。


※このシリーズは全国の諸先生方のメッセージを参考にしています。黙示録はいろいろな解釈がありますので、あくまでも一つの考え方として捉えていただければと思います。

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