こんにちは、ノイです。
私の住んでいる街に、エステラ・フィンチという方の墓碑があります。
彼女は約100年前に24歳の若さで来日したアメリカ人宣教師で、40歳のとき日本に帰化しています。主に陸海軍人に伝道し、多くの日本人に「マザー」と呼ばれ親しまれたフィンチは、持病の心臓病により56歳で天に召されました。
今、この記事を読んでくださっている皆さんの街にも、来日した宣教師の墓碑が残っているかもしれません。彼らは故郷を後にし、イエス・キリストの福音を携え、はるばる海を渡って日本までやって来たのです。
今から2千年前にイエスによって始まった福音宣教の働きは、脈々と受け継がれ今日に至っています。
神はご自分の働きを、信仰を持って歩む一人ひとりと共に分かち合われるのです。
今回は、その最初の継承者として使命を果たした使徒たちの働きに注目しつつ、『使徒行伝』を見ていきたいと思います。
日本海を見て育つ。 幼い頃、近所の教会のクリスマス会に参加し、キャロルソングが大好きになる。 教会に通うこと彼此20年(でも聖書はいつも新しい)。 好きなことは味覚の旅とイギリスの推理小説を読むこと。
新約聖書『ルカによる福音書』の続編である『使徒行伝』は全部で28章あり、最初にイエスの復活と昇天、そして、ペンテコステの日に始まった使徒たちによる福音宣教と教会の設立について書かれています。イエスの復活と昇天、また、ペンテコステについては、本シリーズの第1回、第2回で取り上げていますのでよかったらご覧ください。
『使徒行伝』の前半では、ペテロとヨハネを中心とした使徒たちの動きが記され、その中で教会に人々が集まって拡大していく様子や、ユダヤ人からの迫害、最初の殉教などさまざまな出来事が書かれています。
また、使徒たちが語った説教についても詳(つまび)らかに記録されており、当時の人々に向けられた福音の中心が、今と同じようにイエス・キリストであったことを知ることができます。
そして、最初はユダヤ人を対象にしていた伝道が、聖霊の導きによって他民族にも広がっていくのと重なり合うようにパウロ(別名サウロ)が登場し、中盤からは主にパウロの宣教旅行について記載されています。これは、著者のルカがパウロの宣教に同行したためです。
最終章はパウロ最後の宣教地となったローマでの出来事で締め括(くく)られていますが、ルカによって記された次の最後の一文は、読者に『使徒行伝』がまだまだ始まったばかりであるかのような印象を与えます。
パウロは、自分の借りた家に満二年のあいだ住んで、たずねて来る人々をみな迎え入れ、はばからず、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えつづけた。
使徒行伝28章30~31節
キリスト教の最初の宣教師は、イエスの弟子であったユダヤ人です。
ユダヤ人は紀元前から万物の創造主である神と深い関わりを持ち、神がモーセを通して授けた律法を守ってきた特殊な民族です。
彼らは預言者たちが神から預かった言葉を記した旧約聖書を、紀元前の時代から何世代にもわたって受け継いできました。
ユダヤ人は律法によって神の聖さと人間の「罪」を認識し、罪には償いが必要であることも知っていました。そして、律法の定めに従って罪を償うための儀式を繰り返し行うことにより、罪の赦しを得ていたのです。
旧約聖書の教えに精通したユダヤ人ほど、イエスの十字架による贖(あがな)いの死の意味を理解できる民は他になかったと言えるでしょう。
約束された救世主を待ち望み、絶えず神を意識してきた民のただ中に神は人となって来られ、救いを示されたのです。
『使徒行伝』に最初に記録された説教は、ペンテコステの日にイエスの一番弟子ペテロによって語られたものでした。
ペテロは、ペンテコステの場に居合わせていたユダヤ人に向かって「今、あなたが見ているこの現実が、まさにヨエル書に書かれている神の約束の成就なんですよ!」と叫びました。
聖霊を受けたペテロの中で、今、自分たちに起こった事と、次に引用する旧約聖書の『ヨエル書』に書かれた預言の一節がはっきりと結びついていたのです。
その後わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。
その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ。
ヨエル書2章28~29節
「今、語るべき言葉というものがある。そのタイミングで語られなければ、心に響く力は失われ、後になっては意味を失ってしまう」というお話を聞いたことがありますが、聖霊が降(くだ)ったまさにその日、ペテロは聖霊によって語るべきことを語ったのです。
そして、イエスに関する聖書の預言に触れ、ユダヤ人たちが拒み、十字架で死なせた方が約束された救世主であったことを解き明かし、同胞に悔い改めるよう訴えました。
以下は、その時のペテロの説教の一部です。
イスラエルの人たちよ、今わたしの語ることを聞きなさい。
あなたがたがよく知っているとおり、ナザレ人イエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神からつかわされた者であることを、あなたがたに示されたかたであった。
このイエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによるのであるが、あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。
神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。
イエスが死に支配されているはずはなかったからである。
…(略)…
兄弟たちよ、族長ダビデについては、わたしはあなたがたにむかって大胆に言うことができる。彼は死んで葬られ、現にその墓が今日に至るまで、わたしたちの間に残っている。
彼は預言者であって、『その子孫のひとりを王位につかせよう』と、神が堅く彼に誓われたことを認めていたので、キリストの復活をあらかじめ知って、『彼は黄泉に捨ておかれることがなく、またその肉体が朽ち果てることもない』と語ったのである。
このイエスを、神はよみがえらせた。
そして、わたしたちは皆その証人なのである。
それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。
※太字は著者による
使徒行伝2章22~33節
この説教を聞いた人々は「強く心を刺され」悔い改めた、と『使徒行伝』には書かれています。聖霊によってペテロから溢れる生きた言葉が、人々の心に刺さったのです。
『使徒行伝』には、その後もペテロが実に堂々としてイエスを証しする場面が登場します。
ユダヤ人の指導者たち(大祭司や長老など)から命を狙われ、脅され、鞭打ちの刑を処された後でも、屈することなく福音を叫び続けていくのです。
その姿は、イエスが十字架に架けられる直前、恐怖からイエスの弟子であることを三度も否定したあの臆病なペテロとは180度異なるものでした。
その時、ペテロが聖霊に満たされて言った、「民の役人たち、ならびに長老たちよ、わたしたちが、きょう、取調べを受けているのは、病人に対してした良いわざについてであり、この人がどうしていやされたかについてであるなら、あなたがたご一同も、またイスラエルの人々全体も、知っていてもらいたい。
この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。
このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。
この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。
人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った。
そして彼らがイエスと共にいた者であることを認め、かつ、彼らにいやされた者がそのそばに立っているのを見ては、まったく返す言葉がなかった。
※太字は著者による
使徒行伝4章8~14節
これは、ペテロがイエスの名によって足の不自由な人を癒した奇跡の後、大祭司や指導者たちによって捕らえられ尋問されたペテロが語っている場面です。
民衆を扇動し、イエスを十字架で死なせるように仕向けた張本人である指導者たちは、収まったと思っていたイエスに関する運動(福音伝道)が弟子たちによって再び起こることを非常に恐れていました。
そのため、ペテロとヨハネがイスラエルの宮の真ん中で奇跡を行い、イエスの名を広めた途端に駆けつけて来て、二人を捕らえ「もう誰にもイエスの名によって語るな」と脅したのです。この時、ペテロの奇跡と説教によって、男性だけでも5千人の人がイエスを信じていました。
度重なるユダヤ人指導者たちからの迫害に、使徒や教会はどのような反応をしたのでしょう。
ペテロとヨハネはいつも同じ姿勢で、「神に聞き従うよりも、あなたがた(指導者たち)に聞き従うほうが神の御前に正しいかどうか判断してほしい。私たちは、自分たちが見聞きしたことを話さないわけにはいかない」と決して譲りませんでした。
二人から話を聞いた教会の仲間たちもうろたえることなく、「神の言葉を大胆に語り、イエスの名によって癒しと奇跡を行うことができるように」と心を一つにして祈ったのです。
彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言(ことば)を語り出した。
使徒行伝4章31節
外圧に委縮することなく、力強い福音伝道が続けられた秘訣は、聖霊の満たしと神の恵みが教会と共にあったことでした。
また、5章には教会内部で起こった事件について書かれています。
ここで詳しいことを述べることはしませんが、その出来事を通して、神の共同体の聖さを守るために聖霊が働かれたことがわかります。
イエスが宣教の働きを行っていた時、言葉だけでなく、その行いによっても自身が神であることを人々に示すためにさまざまな奇跡を行いました。
『使徒行伝』の時代、今度は弟子たちがイエスの名によって奇跡を行い、人々を救いに導きます。弟子たちが語る神の言葉と、誰の目にも明らかな奇跡の業(わざ)によって、反対勢力が止めようにも止められない爆発的なリバイバルが起こったのです。
しかし、主を信じて仲間に加わる者が、男女とも、ますます多くなってきた。
ついには、病人を大通りに運び出し、寝台や寝床の上に置いて、ペテロが通るとき、彼の影なりと、そのうちのだれかにかかるようにしたほどであった。
またエルサレム附近の町々からも、大ぜいの人が、病人や汚れた霊に苦しめられている人たちを引き連れて、集まってきたが、その全部の者が、ひとり残らずいやされた。
使徒行伝5章14~16節
そして、拡大していった教会では、使徒たちが祈りと神の言葉に専念するために、配給などの働きを担うための執事が選任され、よりよい運営を行うための組織化が進みました。
ここまで、ペンテコステの日に始まった使徒たちの宣教が、エルサレム全体に広まっていく様子を追ってきました。人には成せないことを、聖霊が成していったのです。
次回は、エルサレムから始まった福音伝道が、他の地域に広がっていく過程を見ていきたいと思います。
ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう。
使徒行伝1章8節
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