主の祈り
天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。
御国〔みくに〕を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救い出〔いだ〕したまえ。
国と力と栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。アーメン。
目次
クリスチャン家庭に生まれ育つ。趣味は映画、ハイキング、ボードゲームなど。 神学校を卒業後、牧師として働いてきました。現在はフリーランスのWebライターとして働きつつ、神様の愛を伝えるために様々な活動をしています。イエス様といっしょに生きる素晴らしさをお分かちできたら、うれしいです!
後半では、主の祈りの「呼びかけ」、「6つの願い」、「結びの言葉」のうちの「6つの願い」と「結びの言葉」を解説いたします。
「御名(みな)」とは、神の名前です。
聖書の世界では、名前はその人を識別する単なるラベルではなく、そう名付けられた人の人柄や性質を表しています。
神の名も神の本質を表し、神ご自身のことを指します。
ですから、「御名をあがめさせたまえ」は、神がその素晴らしい人格、性質のためにほめたたえられ、礼拝され、栄光が帰されるようにという願いなのです。
聖書の教える神は、全世界の創造主であり、私たち人間をはじめ、全被造物の賛美を受けるに値するお方です。
われらの主なる神よ、あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります。
ヨハネの黙示録4:11
神に造られ、今も生かされている私たちには、神に感謝する理由が数限りなくあります。
そして、神は私たちを罪から救うために、救い主イエスをこの世に送り、私たちの罪の身代わりに十字架で犠牲としてくださいました。
イエスにおいて明らかにされた神の愛と救いのために、御名をあがめ、神様を賛美しましょう!
またわたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」
ヨハネの黙示録5:13
「御国(みくに)」とは、神の国です。
私たちの目には見えませんが、現在も創造主は被造世界を治めています。
そして、今から約2000年前、天の神は御子イエス・キリストをこの世に派遣し、恵みと救いによる支配を始めました。
神の御子、救い主イエスを信じる人は、罪が赦され、信じたその時から神の愛の支配の中でいつまでも生きる者となっています。
神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けているのである。
コロサイ人への手紙1:13-14
神の救いによる支配は、イエスの登場以来、国と国の境、民族同士の壁を超えて拡大し続け、今では世界人口約80億の約3分の1がクリスチャン、すなわち、神の国の市民です。
クリスチャンは神の愛と救いの素晴らしさを現在進行形で体験している者として、神の素晴らしい愛と救いによる支配がさらに広がっていき、全ての人が神の愛と救いに生かされるように願って、「御国を来たらせたまえ」と祈るのです。
そして、聖書の約束によると、復活し、天に帰ったイエスは神の国の完成のために再びこの世に来ます(再臨)。
キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。
ヘブル人への手紙9:28
イエスが力と栄光に満ちてこの世界に戻って来て、神の国を完成させ、この世の罪と悲惨、苦しみ、悲しみに終止符を打ってくださる日を待ち望みながら、「御国を来たらせたまえ」と祈っていきましょう!
「みこころ」とは、神の心です。
天使たちが天で神の心に従うように、私たちも地上で神の愛の心を映し出すような生活ができますようにと願って、クリスチャンは「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈ります。
神の愛を反映する世界は、平和に満ち、安心して過ごせる理想的な世界です。
残念ながら、現在は地球上で国同士、民族間の戦争や紛争が絶えません。
そして、私たち自身も経験したことがあるかもしれませんが、身近な職場や家庭でさえ、ハラスメントがあったり、虐待、人間関係の不和が生じます。
創造主がお造りになった良い世界とはかけ離れた状態となっています。
しかし、聖書の約束によると、イエス・キリストが再臨する時、世界の状態は一変し、神の愛が全てを覆う永遠の世界が始まるのです。
また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」
ヨハネの黙示録21:3-4
その日を待ち望みつつ、神の心である愛を実践し、神の愛と救いをまだ知らない人々に救い主イエス・キリストのことを伝えていきたいですね!
イエス・キリストは、私たちが生きるために不可欠な日々の食べ物を神に願うように教えました。
創造主であり、私たちの魂と身体の両方をデザインし、造った神は、私たちの生存には食べ物が必須であることを誰よりもご存じです。
そして、イエスが教えた神は、天の父です。
天の父である神は、私たちを愛し、私たちの衣食住にまで関心を持ってくださいます。
だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
マタイによる福音書6:31-32
ですから、神を信じ従う人生に必要なものは何でも、私たちは大胆に祈り求めてよいのです。
私たちを愛してくださる天の父は、私たちの願いが私たちの益になるならば、一番良い時、ベストな形で、叶えてくださいます。
神が私たちを養ってくださる普通の方法は、私たちの勤勉な労働を通してです(もちろん、それが難しい、あるいは不可能な場合には、神は別の手段を使ってくださいます)。
私たち自身が働いて稼いでいると思ったとしても、実はその仕事、働く気力・体力、健康自体が神の賜物であり、神が私たちの手を通して、私たちの必要を与えてくださっていると言えるのです。
第5の願いは、日用の糧を求める第4の願いの直後にあります。
イエスによると、私たちの身体に日用の糧が必要なように、私たちの魂の健やかさには日々の罪の赦しが不可欠なのです。
イエスが私たちの身代わりに十字架で罪の罰を受けてくださったおかげで、神は私たちの全ての罪を一方的に赦してくださいます。
ですから、私たちは思いと言葉と行いにおいて犯す罪を神の前でためらわずに告白し、霊的な健やかさを取り戻すように勧められているのです。
さて、神の一方的なご好意とイエスの十字架の贖罪(しょくざい)のおかげで罪赦された者として、私たちは他の人の罪を赦すことを求められています。
他の人が自分にした罪を赦すと、何だか「損をする」ように感じるかもしれません。
しかし、私たちが神に犯した罪は、他の人々が私たちに犯した罪や過ちよりも比べものにならない程に重いのです。
神は、それにもかかわらず、私たちの罪を赦すために、神の側が無限に高価な犠牲を払って罪も傷もないご自分のひとり子をこの世に送り、私たちの身代わりに十字架で死なせてくださいました。
神の限りない、一方的な愛によって赦されている者として、私たち自身も神の愛と赦しを人間関係で現わしていくことを求められているのです。
互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。
エペソ人への手紙4:32
ここの「悪」は、抽象的な悪ではなく、「悪魔」です。
聖書によると、全ての罪や悪の背後には悪魔がいます(もちろん、罪や悪は、それらを犯す人間自身に道徳的責任があります)。
西洋絵画に登場する角、しっぽ、羽の生えた姿の悪魔ではないのですが、創造主から私たちを引き離して滅ぼそうと誘惑する真の悪魔は存在するのです。
ですから、神の御子イエスは、悪魔の「こころみ」、すなわち、誘惑から救い出されることを願うようにと、弟子たちに教えたのです。
神を敬い、イエスを信じるクリスチャンであっても、時に試練に遭います。
天の父は試練や逆境を通して私たちの信仰を鍛え、良い結果をもたらしてくださるので、試練はただのマイナスではありません。
肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。
ヘブル人への手紙12:10
しかし、神が試練を通じて私たちの信仰を成長させ、益を与えてくださるのと対照的に、悪魔は厳しい状況の只中で私たちが神の実在や愛を疑い、ついには神を信頼することを放棄するように誘惑してきます。
ですから、イエスは、悪魔の誘惑から守られるように、試みられる時は救出してくださるように、誘惑に屈せず、負けない力を授けてくださるように願いなさいと、弟子たちに教えたのです。
私たちをホッとさせてくれるのは、聖書の教える世界観は神と悪魔の二大勢力の争いではなく、神がただ一人の主権者であり、悪魔さえ天の父なる神の支配の下にあるということです。
そして、神の御子イエスは、その十字架の死によって悪魔に致命的な打撃を与えました。
わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう
創世記3:15
私たちが試練に遭う時は、神の主権とイエスの勝利を思い出しましょう!
悪魔の誘惑に負けて、神の実在や恵み深さを疑い、信仰から離れてしまうことなく、むしろ信仰が鍛えられ、成長させられて、ますます神を信頼する者とされるように祈ろうではありませんか。
キリスト教会の中で伝統的に使用されてきたこの結びの言葉は、新約聖書のマタイによる福音書とルカによる福音書に記録されている主の祈りには含まれていません。
元々はイエスが教えた主の祈りにはなかった言葉ということです。
クリスチャンたちが主の祈りを祈っている間に、この言葉を含めて祈るようになっていったのです。
ただ、この結びの言葉は、聖書の教えと見事に合致しています。
目には見えませんが、創造主は現在も世界を治めており、「国と力と栄え」はいつまでも限りなく神のものなのです。
そして、創造主であり、救い主でもある神は、「国と力と栄え」を受けるのにふさわしいただ一人のお方です。
主の祈りを祈り終える時、天の父である神の愛と恵みと救いに感謝し、神に全ての栄光をささげ、賛美をもってこの結びの言葉を祈りましょう!
最後の言葉「アーメン」はヘブライ語で、「まことに」という意味があります。
私たちは二重の意味でアーメン(まことに)と言います。
それは自分がささげる祈りが、第一に、「まことに」自分の本心、心からの願いであること、第二に、神に聞かれることを「まことに」確信しているために、「アーメン」と唱えて、祈りを終えるのです。
このように、主の祈りの結びの言葉は本来の主の祈りにはなかったのですが、主の祈りを締めくくるのにピッタリな言葉として、これまでずっとクリスチャンたちに用いられてきたのです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。いかがでしたか。
この記事では、
●主の祈りとは何か?
●主の祈りの特徴
●主の祈りの言葉の意味
について解説してきました。
主の祈りは、
●主イエス・キリストが弟子たちにどう祈るべきかを教えるために与えた「祈りの手本、型」です。
●神中心の祈りであり、第1〜3の願いで神の栄光をまず願い求め、第4〜6の願いで神の栄光のために生きる私たちの必要を願うところに一番の特徴があります。
●一つひとつの願いの言葉にはキリスト教信仰のエッセンスがギュッとつまっています。
この記事を読んでくださったあなたの「主の祈り」についての理解が深まったなら、こんなにうれしいことはありません。
あなたがイエスの教えた祈りの世界をさらに豊かに経験できるように、特に礼拝で信仰の兄弟姉妹と一緒に唱える、あなたの主の祈り体験がいっそう祝福されるように、心から願っています。
もしあなたがまだ教会の礼拝に足を運んだことがないなら、ぜひ、最寄りのキリスト教会の礼拝に出席してみてください。
前編の記事で触れましたが、主の祈りは、「天にまします『我らの』父よ」という呼びかけの言葉からわかるように、「私一人」の祈りを超えて、「私たち」の祈りです。
私たちが教会に集まる人々と一緒に心を合わせて祈る時に、主の祈りの伝える天の父との限りなく豊かな祈りの世界を、最もよく味わうことができるのです。
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