「求めよ、さらば与えられん!」とは?どのように祈るべきか、祈りについてイエスが語った3つのたとえ

祈りのイメージ-2こんにちはTaroです。
皆さんはお祈りをされたことがあるでしょうか。祈りをささげる対象が神仏なのか、どのような場所でなのかはともかくとして、大抵の人は拝んだり、祈ったりしたことが幾度となくあるのではないかと思います。「自分は神々に頼るのはゴメンだ」とおっしゃる方に出会うことがありますが、むしろそういう方のほうが少ない気がします。
生きている限りは、受験、就職、結婚、経済的戦い、病気の癒しなど、どうしても叶えたい希望や解決したい問題があるのが当たり前で、それらが努力だけではどうにもならない時、祈りに向かうのではないかと思います。
新約聖書には、イエス・キリストが祈りについて語っている場面がたくさんあります。たとえ話を通しても解き明かされているので、今日はそのいくつかを通して「祈ること」とはどういうことなのかを学んでいきましょう。

 


Taro
Writer ProfileTaro

プロテスタント教会の信徒で新生宣教団の職員。前職から印刷に関わり活版印刷の最後の時代を知る。 趣味は読書(歴史や民俗学関係中心)。明治・江戸の世界が垣間見える寄席好き。カレー愛好者でインド・ネパールから松屋のカレーまでその守備範囲は広い。

真夜中に訪ねて来る友人のたとえ

また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。
そこで彼らに言われた、「祈るときには、こう言いなさい、『父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。
わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。
わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。わたしたちを試みに会わせないでください』」。
そして彼らに言われた、「あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、『友よ、パンを三つ貸してください。
友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから』と言った場合、彼は内から、『面倒をかけないでくれ。もう戸は締めてしまったし、子供たちもわたしと一緒に床にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない』と言うであろう。
しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう。
そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。
あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。
卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。
このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。
(ルカの福音書11:1~13)

 

真夜中に訪ねて来る友人のたとえが語られた背景

真夜中に訪ねてくる友人真夜中に訪ねてくる友人

あるとき、弟子の一人が祈りを終えたイエスに「祈ることを教えてください」と教えを求めました。それに対してイエスは「主の祈り」(2-4節)を教え、その後に、弟子たちに語られたのがこのたとえ話です。
ちなみに「主の祈り」はマタイの福音書9章に詳しく記されていますが、このたとえ話はルカの福音書だけに記されています。
お話は、真夜中に到着した友人をもてなすためのパンが不足していることに気づいたある人が、近所の別な友人にそのためのパンを求めるという設定です。この主人公は真夜中にもかかわらず、隣人に必要を訴えました。しかし最初は断られてしまいます。しかし「しきりに願う」うちに、隣人もそれに応えるものであると語られました。

●「主の祈り」についてはこちらの記事で詳しく解説しています。

 

隣人(友人)と天の父との違い

イスラエルは荒野が多いイスラエルは荒野が多い

イスラエルの民が大切にしていることは旅人をもてなすことでした。それはどうやら今の私たちの感覚とは違っていたようです。イスラエルは荒野の多い土地であり、特にその時代の旅は過酷だったと思われます。そういった旅人をもてなすことは単なる歓迎の意味を超えていたのでしょう。食事を与えることは夜が明けてからでもいいという程度の話ではなかったのです。
主人公は必死になって隣人に求め続けました。しかし、真夜中に求められ対応する隣人はたまったものではありませんね。そちらの感覚は古今東西共通しているような気がします。そして問題に直面している人とそうでない人との温度差も見えてきます。
それでも、なりふり構わず、状況をわきまえずとも、求め続けるならば与えられるのだとイエスは語られました。
それでは、神様はこの隣人のように、主人公の必要については無関心で、うるさいからしぶしぶ起きて応答してくださる方なのでしょうか。どうもイエスが語ろうとしているのはそういうことでは無いようです。
イエスが言われているのは、「神様の前に必要を訴えるのに取り繕ったり、遠慮したりする必要はない。なりふり構わず訴えたらどうだ」ということなのではないでしょうか。
ここで「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。 」という有名な言葉が語られました。これは「求め続け、捜し続け、たたき続け」という「継続して」という意味が含まれているそうです。
神様と主人公の隣人との違いはこの後の言葉でさらにはっきりと現れています。

聖霊をくださるとは(良い贈り物をくださる天の父)

最後のところで、「あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。 卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」と語られています。
少々不思議な言葉ですが、簡単に言えば悪い親でさえ愛する子の求めに良いものを与えたいと願うものなのに、ましてや神様は愛する私たちの求めに聖霊(良いもの以上のもの)を与えたいと願っておられると言っているのだと思います。この話の結語ですから、イエスが一番言いたかったことはこのことなのでしょう。
聖霊とは、神様の三つの位格の一つとされますが、実は聖書には沢山の記述があり簡単にはご説明はできません。しかし、父(創造主)と御子(イエス・キリスト)と同格の神様ですから、私たちが求めて与えられるとするならばこれ以上のプレゼントはありません。それを神様は私たちに与えたいというのはとてつもない不思議としか言いようがないですね。
祈る私たちを励ましてくれる聖霊に関する聖句をいくつかご紹介しましょう。

御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。
(ローマ人への手紙8:26)

わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。
それは真理の御霊である。
(ヨハネの福音書14:16, 17)

しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう。
(ヨハネの福音書14:26)

霊と聞くと「怖い」と感じる方もいるかも知れませんが、いわゆる「神がかり的」な恐ろしいものではなく、聖霊は祈る私たちを助けるペルソナ(人間でいう人格)をもった神様だとされています。
祈りの中で、私たち自身が整えられ、本当の必要に気づかされたり、具体的な行動の力が与えられたりするのも聖霊の働きと言えます。究極的には心がしなえて祈れないときにはとりなしてくださるというのです。
もうこうなると具体的な必要のために祈ることも大切ですが、御霊(聖霊)が共に歩んでくださることを祈る方がもっと意義あることのように感じてしまいます。

 

やもめと裁判官のたとえ

また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。
「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。
ところが、その同じ町にひとりのやもめがいて、彼のもとにたびたびきて、『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』と願いつづけた。
彼はしばらくの間きき入れないでいたが、そののち、心のうちで考えた、『わたしは神をも恐れず、人を人とも思わないが、このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そうしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるだろう』」。
そこで主は言われた、「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。
まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。
あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。
(ルカの福音書18:1~8)

やもめと裁判官のたとえが語られた背景

やもめと裁判官やもめと裁判官

この聖句の書き出しに既に結論が語られていますが、イエスは人々(弟子たち)に「失望せずに常に祈るべきことを」教えようとして話し始められたのがこのたとえ話でした。
話の中身を見ると、やもめには切実なる問題があって、その解決のためには、この人(不義な裁判官)に裁いてもらうしかないという状況であることがわかります。細かく見ると「訴える者を裁いて私を守ってください」という内容です。

不義な裁判官と神との違いは

この裁判官は自ら語っているように、神を敬わず人を見下すような者でした。それゆえにこのやもめの訴えにも当初はいい加減な態度で聞き流し、取り合わないでいました。しかし、日夜やってきては訴えるその態度に根負けしてついに裁判に踏み切ることを決めたというのです。このままでは日常生活が脅かされると感じたのでしょうか。
このたとえ話でも、そのまま裁判官を神様にあてはめると、「神様はしぶしぶ祈りに応える方なので相当覚悟して熱い祈りを続けなければならない」と教えているように感じてしまいますが、こちらもそういうことでは無いようです。

「人の子が来るとき」とは

イエスの結語の冒頭は「まして神は」とあります。つまり不義の裁判官でさえ「失望せずに求め続けるなら」裁いてくれるのだから、神様は「長い間そのままにしておられない」「すみやかにさばいてくださる」お方なのだと言われています。
気になるのは、「しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」と最後に言われていることです。どういうことでしょう。
「訴えが取り上げられ神の正義が示されるときまで、あなたには解決の望みを神に置き続けることができますか」と問いかけられているのではないか、そのように感じるのです。神様の時間は私たちが感じている長さとはどうも違っているようです。既に取り上げられ、解決の動きが始まっていたとしても私たちにはそれが感じられないことがしばしばです。それゆえに「失望せずに常に祈るべきことを」教えられたのではないかと思うのです。

 

パリサイ人と取税人の祈りのたとえ

自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。 
「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。
パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。
わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。 
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。 
あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。 
(ルカの福音書18:9~14)

パリサイ人と取税人の祈りのたとえが語られた背景

このたとえ話は、先程見た「やもめと裁判官のたとえ話」の直後に記されたお話です。自分を義人(罪のない正しい者)と自任して他人を見下げている人たちに向けてイエスが語られたとされています。登場人物は対照的な二人でした。ひとりは宗教家にしてエリートであったパリサイ人、もうひとりは社会的には底辺にいると目されていた取税人でした。取税人とは当時支配国であったローマのために税金を取り立てる役を請け負っていた者で、異邦人のために同胞から税金を取り立て、さらにその上前で私服を肥やすところから人々からは忌み嫌われていた存在でした。

二人の祈りの違いは

パリサイ人と取税人 パリサイ人と取税人

この二人は祈りも対照的でした。
まずパリサイ人はこのように祈りました。『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
一方の取税人の祈りは、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と、遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながらささげられたものでした。

神に義とされるとは

最後に「神に義とされて...」とありますが、義とされるというのは聞き慣れない言葉ですね。聖書に記されている「義」とは「正しい」とか「罪がない」状態のことを指し、この場面では「無罪判決をいただいた」というのが近いのではないかと思います。
ここで「神に義とされた」のはパリサイ人ではなく取税人でした。
パリサイ人のお祈りの内容は、「あれもしています。これもしています。あれは避けています」など立派なものでしたが、それは自分の正しさを神様に主張している祈りのようにも感じてしまいます。そしてその証明のために近くにいた取税人まで持ち出して、「自分はそんな人間でないことを感謝する」とまで言っているのです。誰かと比べたり、自分ができている良いところだけを持ち出しても、真の神の前には本当の関係を作り出すことはできず、虚しいだけではないかと思います。
一方で取税人の祈りには他者は介在せず、主と我の関係だけがあり正直な罪の告白がありました。
聖書にはこのような言葉があります。

神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。
(詩篇51:17)

神は人間に多くの掟(律法)を与えられましたが、それは人間が自らの弱さを悟り、神の前にへりくだるようにと与えられたものでした。その律法を盾として傲慢になることは、全く神の意に反することだったのです。
自分が神の前に罪人であり、神の憐みにすがるほかないと認めた取税人のへりくだった心こそが、神の目にかなうものでした。

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まとめ(真実な祈りとは)

いかがでしたか。イエスの3つのたとえ話を見てきました。様々な角度から祈りについて教えておられるように感じます。最後に真実な祈りとは何か、祈るとはどういうことかをご一緒に振り返って見ましょう。

真実な祈りとは

  • 神様は、人とは違い、取り繕ったり遠慮したりする必要がないお方なので、なりふり構わず大胆に祈ることだと思います。
  • 神様はすみやかに応えてくださるが時間の感覚は神様と人とは違っているので、奨励されているように失望せずに祈り続けることだと思います。
  • 神様の前に出る時は謙遜にへりくだり、人と比べたり自分をごまかしたりせず、罪があるならそのまま認めて正直に赦しを祈ることだと思います。

問われるのは神様との関係

それでは、祈りの答えが明確になるのに時間がかかるとき、あきらめないで祈り続ける強さは一体どこからくるのでしょうか。念ずる思いの強さや粘り強さなど、ただ個人的資質や性質に帰することなのでしょうか。
粘り強い祈りの源泉は、①かなえてほしい願いが強いこと②解決の答えは他ならぬ神様が持っておられることを信じていること、と言えるかと思いますが、これら3つのたとえ話はさらに以下のことを教えているように思いました。

神様が良きものを与えたいと願っておられることを素直にみとめること。
それは、私たちが神様をどういうお方と受け取っているのか、私と神様との関係性が問われているのだと思います。
神様が私を愛して下さっていることを思うとき、解決のタイミングや方法などが自分がイメージしたものと違っても最善だと思うことができます。
そして、神様の愛をより深く知るためには、地道なことかもしれませんが日々少しずつでも聖書に親しむことが何よりですね。

聖霊に助けていただくことが私たちには必要なことではないか。聖書を読む
聖霊は私たちに神様を示してくださるので、愛なる神を常にイメージできるし、先の箇所で読んだように聖霊ご自身が代わってとりなしてくださることも何より大きな助けになると思います。

そして、先輩クリスチャンに祈ってもらったり、祈りの友にとりなしてもらうことも祈り続ける助けになることでしょう。ともに祈り、神様の愛と真実を益々知る者になっていきたいですね。

あなたの願いが一日も早くかなえられますように。
では。

●祈りについてはこちらの記事にも書かれていますので、よろしければお読みください。

 

●「イエスのたとえ話」に学ぶシリーズの他の記事も、よろしければお読みください。


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