旧約聖書の『ヨブ記』とは?人生の試練に遭ったとき

「人生は甘くない」。

生きていく中で恐らく誰もが一度は思うことではないでしょうか。
七転び八起きしながら歩む時もあるかもしれません。
苦難にあった時はもちろん、順調に進んでいる最中であっても、不安を覚えることや、将来を憂いたりすることもあるでしょう。

日常生活の中で消えては生まれる細々とした問題や心配事以外にも、感染症や自然災害、戦争など、生きている限り思い煩いの種は尽きません。
色んな経験をすればするほど、人生は自分でコントロールできないことばかりだということを知っていくように思います。
今回は、聖書の中でもとりわけ人生の試練について色濃く書かれた『ヨブ記をご紹介したいと思います。


ノイ
Writer Profileノイ

日本海を見て育つ。 幼い頃、近所の教会のクリスマス会に参加し、キャロルソングが大好きになる。 教会に通うこと彼此20年(でも聖書はいつも新しい)。 好きなことは味覚の旅とイギリスの推理小説を読むこと。

『ヨブ記』ってどんな話?

ヨブは、清廉潔白な人であったにもかかわらず、倒れて起き上がれないほどの災難にあって苦しんだ実在の人物です。

度重なる災難と不幸に加え、片時も離れることがない病の苦痛を負ったヨブ。
その記録の内容たるや、ヨブが「苦難にへばりつかれた人」と言えるほどです。
『ヨブ記』はヨブが幸せの頂から転落し、全てを失った中で語られた悲痛な言葉で埋め尽くされています。 

「まじめに誠実に生きてきたのに…」

ヨブはわが身に起こった災難を嘆き、正しく生きてきた自分に対する神の不当な仕打ちに対して「なぜ?」を繰り返しますが、それに対して誰も納得のいく答えを見つけることができません。

話の終盤に入り、痛みを語り尽くしたヨブに答えられたのは、ヨブが待ち望んでいた創造主である神でした。この神との対面の後に、ヨブの回復の人生がスタートします。

ヨブの記録は、私たちが「何でこんなことが私に起こるのか?」といった思いに駆られるような時、共感と慰め、そして新しい視点を与えるために書かれたのかもしれません。
前置きが長くなりましたが、ここからはもう少し掘り下げてご紹介したいと思います。

「義人ヨブ」ってどんな人?

ヨブ旧約聖書の一書である『ヨブ記』は、創世記よりも前、あるいは同年代に書かれた書物だと言われています。

ヨブは「ウツの地」(現在のどこかは不明)の人で、神が認めるほどの義人であり、当時、その地方で一番の有力者でした。
莫大な財産を所有し、7人の息子と3人の娘にも恵まれたヨブは、常に神を恐れ敬い、悪から離れ、誠実に生きることを守っていました。
『ヨブ記』を読むと、ヨブが身内のことだけではなく、孤児ややもめ、貧しい人にも心を配っていたことがわかります。

しかし、そんなヨブが、ある日を境に度重なる災難と不幸に見舞われ、愛する子どもたちを含めた何もかもを失っていくのです。

ヨブの告白「主の御名はほむべきかな」

ヨブは道徳的な人であるだけでなく、心から神を称え、恐れ敬う人でした。
ヨブは天と地を創造した神を信じ、自らも神の手によって造られたと確信しています。

子ども、財産もろとも失った時には「人は死ぬとき、何も携えていくことができない」と告白し、神の前にひれ伏します。ヨブの持っていた偽りのない信仰心がよく表れている場面です。

わたしは裸で母の胎を出た。
また裸でかしこに帰ろう。
主が与え、主が取られたのだ。
主のみ名はほむべきかな。
ヨブ記1章21節

度重なる災い

しかし、その後も更なる災いがヨブを襲います。
頭のてっぺんから足の裏まで悪性の腫物で覆われる病に罹ったのです。精神的な苦しみに加え、激しい身体的苦痛がヨブを覆い尽くします。 

灰の中に座り、土器の欠片で体を引っかいているヨブに向かって、最も身近な存在である妻が「まだ誠実さを保とうとしているのですか。神を呪って死になさい」と言い放ちます。

しかし、これに対してもヨブは「神から人生の幸いを受けてきたのだから、災いも受けてしかるべきだ」と答えるのです。

極限状態の中で

度重なる試練の中でも、神に対して不平を言うことなく耐えてきたヨブに、とうとう我慢の限界が訪れます。
心が折れ、「なぜ生まれてきてしまったのか」という嘆きとともに「なぜ神がこんな仕打ちをするのだろう」という不平と戸惑いの言葉がヨブの口から溢れ出ます。

ヨブの友人達の反応

そんな中、一連の災難を知った三人の友人がヨブを慰めるために訪れます。
親族や他の友達は不幸の真っ只中にあるヨブから離れましたが、この三人はヨブの姿を目にすると声を上げて泣き、七日間も地に座って苦しみの時を共にしました。

しかし、三人は「罪を犯したから神の罰を受けているのだ」という考えから、「何か(悪いことを)したからでしょ?」と代わる代わるヨブを問いただしていきます。
当然、何も罪を犯していなかったヨブは「自分は潔白だ。あなたたちは人を惨めにする慰め手だ」と反発するだけの結果に終わってしまいます。

災難に遭うのにはわけがある?(因果説)

因果?人は良くないことが起こると、まず「○○のせいだ」と災いの因果を探ります。
確かに、誤った思いや悪い欲望にとりつかれて行動してしまったがゆえの苦難もありますが、ヨブにこのような原因はありませんでした。

『ヨブ記』は、この地上には因果関係のわからない災難や苦難が存在することを示しています。

ヨブ記のもう一つの舞台

さて、ここで一旦『ヨブ記』の冒頭部分に話を戻します。
冒頭ではヨブの人物像が語られますが、少し進むと、ヨブのあずかり知らぬところで繰り広げられた神とサタン(悪魔)との対話の場面に話が移ります。
実は、この場面がヨブの一連の災難の発端なのです。

神がヨブのことを無垢で正しい者だとサタンに誇ったところ、「ヨブが神を恐れているのは、神が彼の手のわざを祝福して、豊かにしたからではないか」(つまるところ、ご利益信仰なのだ)とサタンは言い返します。
そして、次のように神に詰め寄るのです。

しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたを呪うでしょう。
ヨブ記1章11節

人を屠(ほふ)ろうとする者

ここでサタンについて詳しく述べませんが、どんな存在か一言でいうとすれば、神と人との永遠の敵対者です。
サタンは、神のお気に入りであるヨブを窮地に陥れることで、そのその本心を暴いてやろうではないか、と面と向かって神に挑んでいるのです。 

「理由もなく彼(ヨブ)を吞み尽くそうとした」サタンですが、全財産を失ってもヨブが誠実さを捨てなかったため、次はひどい病で打ってやろうと神にもちかけます。
これに対し「命だけは奪うな」という条件を付けて、サタンがヨブを好きなようにすることを神は許されたのです。 
こうしてヨブに災難を与えたサタンは、この場面以降『ヨブ記』に登場することはありません。

ヨブと友人達との対話

『ヨブ記』の大部分は、ヨブと友人達との間で展開された長い対話で成り立っています。
対話の中で、人生について、そして創造主なる神についての知識が語り尽くされますが、その内容には正しい認識もあれば的外れな見解も含まれており、人間の知識や判断の限界が表れています。

「神はどこにおられるのか」

彼らの会話が終わり、ヨブの言葉が終わった後、その場で最も年若いエリフという人物が登場し、新たな論点に立って話し始めます。

エリフは、三人のように根拠なき咎でヨブを断罪するのではなく、ヨブが「私は正しかったのに災難を与える神は不当だ。こんなことをする神は間違っている」と主張している点に憤ります。
「神は決して悪を行わず、裁きを曲げない」という強い信念からです。
そして、自然を通して垣間見ることができる神の全能さを語りながら「神の思いや取り計らいは人の理解をはるかに超えたものであり、人の知りえない神の領域があることを忘れてはならない」とヨブに迫ります。

自分の思いで頭がいっぱいになっているヨブに向かって、エリフは、自分の考えや感情を一旦横に置いて、神そのものの存在を求めてへりくだることによって、災いによる混乱から抜け出すように告げます。

完全な知識を持つ者があなたと共にいる。
ヨブ記36章4節

エリフの言うことはもっともなことでしたが、神の思いを理解し尽くしているわけではありませんでした。

神の応答

エリフの言葉が途切れた時、とうとう神が嵐の中からヨブに答えられます。
ここに、一人の人に目を留め、個人的に向き合われる神の強い愛と関心が表れています。

イメージ

神はヨブに向かって、天地万物を創造した時のことを話し始めます。
続けて、自然界にある法則(星の運行、水の循環など)を定めたことや、神の下で、厳しい環境の中でも野生動物が逞しく生存していることを話されます。
当然、ヨブの知らないこと、管理できないことばかりです。
神がヨブに身の程をわきまえるように諭しているかのようです。
 
このような神から「非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それに答えよ」と言われたヨブは、「私は取るに足りない者です。あなたに何と口答えできるでしょう」と口を閉ざします。
そして、畳み掛けるように、神は自らが造り出した生物について具体的にヨブに語ります。

人は神と対等ではない存在ですが、神はヨブを導こうと直接向き合われました
苦難の中で不平を言いながらも、平和であった時以上に神に心を向け、神からの言葉を得たいというヨブの切実な気持ちに応えられたのです。

しかし、神が語られた内容は、ヨブの「なぜ?」に答えるものではなく、全能者としてのご自身を明確に示すことで、ヨブが「ただの人間」にすぎないことを思い起こさせるだけに留まります。

『ヨブ記』のまとめ

『ヨブ記』は、私たちを複雑な心境に至らせます。

冒頭では、義人ヨブに災難を許された神に対して疑問を抱き、終盤のヨブへの答えに対しては、何となく突き放すような印象を受けます。
まるで『ヨブ記』全体が、「神の取り計らいを全て理解してしかるべきだ(知る権利がある)」と思っている私たちに対して、一線を引こうとしているかのようにも思えます。

知っていること、考えること、行えること、生きている時間、全てにおいて限りある人間が、自分の人生に起こる事柄を含め、地上の全てのことを理解するのは不可能だ、という地点に立った時、因果追及のしがらみから解放され、別の救いの糸口を求め始めることができます。

神の語りかけの後、ヨブは次のように答えます。

わたしはみずから悟らない事を言い、
みずから知らない、測り難い事を述べました。…
わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、
今はわたしの目であなたを拝見いたします。
*それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います。
ヨブ記42章3~6節

*新共同訳聖書では「それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し自分を退け、悔い改めます。」と訳される。

ヨブの最期

神との立場の違いを認めてへりくだったヨブを、神は回復させ、三人の友人たちとの関係も修復されます。
神は全ての財産を二倍にし、以前にも増してヨブを祝福されます。
ヨブは最後まで苦難の舞台裏を知ることはありませんでしたが、再び子どもたちに囲まれて満ち足りた晩年を過ごしました。 

「人生とは」というより「私とは何か」を示す書物

ヨブに深く関わられた神は、同じように私たち一人ひとりにも目を留めておられます。

すべてのものは、これ(神)によってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
ヨハネによる福音書1章3節

からです。

赤ちゃんと親のイメージ神との関係の中で「自分とは何か」という疑問に対する答えを見出す時、問題が解決されていなくても得られる平安があることを聖書では約束しています。
これは私たちが経験したことがない平安であるため、実際に身をもって知ってみないとピンとこないものです。

『ヨブ記』には、生きていく中で経験する試練の理由も、苦難から逃れる具体的な方法論もはっきりと示されていません。
ただ、神と人との立場の違いを明確にしながらも、神は私たちにとことん寄り添われます。

ヨブの長い長い心情の吐露がありのままに書き残されたのは、神が苦しみを「わかっているよ」ということを伝えるためかもしれません。 

最後に聖書の言葉をご紹介します。

この大祭司(イエス・キリスト)は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。
罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。
ヘブル人への手紙4章15節

十字架のイメージ

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。
あなたがたを休ませてあげよう。
マタイによる福音書11章28節


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