10人のおとめのたとえ話から、聖書の神の国の真理を5分で深掘り

10人のおとめのたとえ

こんにちはTaroです。
突然ですが皆さんは神の国、天国などというとどのようなところを想像されるでしょうか。死んだ後に行く場所、苦しみのない楽園、など漠然とした色々なイメージがあるかもしれません。かくいう私自身も明確にイメージがあるわけではありませんが(何せ行ったことがないので)、聖書には神の国にまつわる記述は多いのです。イエス様もたとえ話で色々と語っておられるので、このコーナーで時折取り上げていきます。共に学んでいきましょう。
今日は、10人のおとめのたとえ話から、神の国に私たちが入るために大切なことは何かを見ていきたいと思います。


Taro
Writer ProfileTaro

プロテスタント教会の信徒で新生宣教団の職員。前職から印刷に関わり活版印刷の最後の時代を知る。 趣味は読書(歴史や民俗学関係中心)。明治・江戸の世界が垣間見える寄席好き。カレー愛好者でインド・ネパールから松屋のカレーまでその守備範囲は広い。

 

油断大敵

灯油断大敵という言葉は皆がよく知り、よく使う言葉ですよね。どうやら比叡山のお坊さんが、開祖の最澄(さいちょう)以来、根本中堂(こんぽんちゅうどう)の灯火を消してはならないとの戒めを守ろうとしてできた言葉とのことです。一日でも気を抜くと灯火は消え、それは教えそのものが途絶える凶兆として見ていたのだそうです。

文字通り昔は、油が切れる=夜明かりが消える、だったと思いますから、うっかり油を切らしてしまうなら、生活上の不自由さは並大抵のことではなかったことでしょう。現在の私たちの生活では明かりに火を使うことが無いので「油断」による不自由さにはピンときませんが、置き換えてみるなら、石油ストーブや石油ファンヒーターなどで実感することかもしれません。

聖書では、油を断つことの意味あいを掘り下げて語っていますのでご一緒に見ていきましょう。
個人的に思い出すのは、小坂忠先生※ご夫妻が設立したゴスペル音楽出版社の接客室の壁に、「油断」という文字とともに灯火皿の写真が貼ってあるのを、打ち合わせに伺う度によく目にしていたことです。きっと今日ご紹介する聖書のこの箇所を意識されて日々働いておられたのでしょう。

※小坂忠 日本のロックミュージシャンの草分け的存在。後にクリスチャンになり、1978年日本初のゴスペルレコード会社を設立し日本の教会音楽の発展に貢献。1991年より秋津福音教会の牧師。2022年召天73歳
 

10人のおとめのたとえ話が語られた背景

それでは早速聖書を読んでいきましょう。

そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。 
その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。 
思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。 
しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。 
花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。 
夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。 
そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。 
ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。 
すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。 
彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。 
そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。 
しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。 
だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。 
マタイ福音書25:1~13

このたとえ話は、前の章から語られている、弟子たちが「世の終わりにはどのようなことがおこるのか」と訊いたことへのイエスの答えの続きになります。

偽キリストや偽預言者の出現、戦争や民族間の争い、飢饉や地震、不法や人々の愛が冷えるなどのことがおこり、キリストの救いの言葉(福音)が全世界に宣教された後に、キリストが栄光を帯びて再び地上に現れることを語っていて、それとの関連で語られた話です。

 

当時の婚礼の風習

10人のおとめ場面の設定はこうです。
今でも西アジアでは結婚は夜に行われるそうですが、1)花婿が花嫁を迎えにいく。2)花嫁は付添人を伴って花婿の家に向かう。3)そして花婿の家で祝宴が催される。という流れです。

このたとえ話の焦点は、付添人である10人のおとめについてということになりますが、この10人は、あかりは持っていました。ところが、油は5人だけは持っていて、あとの5人は油を用意していなかったといいます。

花婿を待っていたのですが、何かの事情で到着が遅れ、皆眠り込んでいた夜中に花婿が到着します。すぐさま付添の支度をしますが、油が減ってあかりが消えかけています。油を持たない5人は、持てる5人に借りようとしますが、分けるほどは無いと言われ、夜中に調達に出かけます。そしてその間に一行は出発してしまい、花婿の家は戸が閉じられ、婚宴は始まり、遅れた5人は入れてもらうことが出来ませんでした。

 

このお話の意味するもの

今回のたとえ話が意味することは一体何なのでしょうか。

花婿とは

先にお伝えした、「キリストが栄光を帯びて再び地上に現れること」というのはキリスト教会では「再臨」という言葉で語られています。最初にキリストが来られたのは、人々の罪を身代わりに背負って死ぬためで「初臨」といわれ、約二千年前に実現しました。再臨は、世の終わりに全てを精算するために、復活し昇天したキリストが再び王としてこの地に来られることだと語られています。

しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。
ピリピ3:20

すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、 
それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。
第一テサロニケ4:16~17

このたとえ話のテーマは、世の終わりに現れるキリストの再臨ということなのです。このたとえ話で語られている花婿とは、そう、キリストのことですね。そして花嫁は教会のことだと言われています。
王として来られるキリストは、御自分に属する者も知っておられ、御国の一員に加えてくれるというのです。

思慮深いおとめと思慮の浅いおとめ

10人のおとめ

フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シャドー, PDM-owner, ウィキメディア・コモンズ経由で

ここで語られる10人のおとめは、そうです、キリストの再臨を待ち望む人たちのことですね。具体的に言えばキリストを救い主と認め受け入れたクリスチャンのことと言えるでしょう。思慮深いおとめたちも、思慮の浅いおとめたちも見た目には何ら変わりはありません。また弱さもあって、花婿の到着を待ちながらもあまりに待たされたために寝てしまったところも同じでした。

では、思慮深いおとめと思慮の浅いおとめの違いは何なのでしょうか。思慮深いおとめはあかりと油を用意し、思慮の浅いおとめはあかりしか用意していなかったとありました。あかりは「キリストを告白する信仰」とも言えるでしょう。油は「準備があること」、言い換えれば「実質が伴った信仰」「生活において神への応答があること」ということではないかと思います。

油は「聖霊」を示しているという説もあります。つまり「聖霊」はキリストの霊、代わりの助け主(ヨハネ14:16~17)ですから、油を携えているということは「聖霊により頼んだ生き方をしていること」ともいえるかも知れませんね。

油は分けてもらえない

なぜ、油は分けてはもらえなかったのでしょうか。
神の国を待ち望む準備は、自分自身でしなさい。と言われているような気がします。
たとえ話では10人の生活の背景は描かれていませんが、私たちが各自神様によって置かれている場所、家族、職場や学校などは様々で、接する人たちや応答する出来事は千差万別。神様の前では自立して生きる者なのですね。親が信仰熱心でも親の信仰で自動的に救われることは無いように、互いに愛し合い助け合いながらも、神様の前に立つのは一人ひとりであると教えられます。ですから、肝心なところでは「分かち合って皆で一緒に」ということはできないのです。

その日、その時は知らされていない

もう一つ大事なことが言われています。13節にあるように、キリストの再臨はいつであるか誰も知らされていないということです。
あるキリスト教を名乗る宗教では、何度も世の終わりの具体的な日を示しては信徒の熱心を引き出しておいて、それが実現しないということを繰り返してきました。これこそ、キリストを語る偽物ですから注意が必要です。

その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子(キリストのこと)も知らない、ただ父だけが知っておられる。
マタイ24:36

ただし、時のしるしは与えられる

それでは、私たちに何のヒントも与えられていないのでしょうか。実はそうではなく、聖書では「時のしるしというものはあるので、だから注意して(油断せずに)いなさい」と語っているのです。

それから一つの譬を話された、「いちじくの木を、またすべての木を見なさい。 
はや芽を出せば、あなたがたはそれを見て、夏がすでに近いと、自分で気づくのである。 
このようにあなたがたも、これらの事が起るのを見たなら、神の国が近いのだとさとりなさい。 
よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。 
天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない。 
あなたがたが放縦や、泥酔や、世の煩いのために心が鈍っているうちに、思いがけないとき、その日がわなのようにあなたがたを捕えることがないように、よく注意していなさい。 
その日は地の全面に住むすべての人に臨むのであるから。 
これらの起ろうとしているすべての事からのがれて、人の子の前に立つことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい。
ルカ21:29~36

具体的な前兆とはこうです。

またオリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」。 
そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。 
多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。 
また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。 
民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。 
しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。 
そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。 
そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。 
また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。 
また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。 
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 
ルカ24:3~14

そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。
マタイ24:3~14

いかがですか、これらのことは2000年来常にあったともいえますが、各地での紛争や、格差社会による人々の心の荒廃や思いやりの欠如、惑わす宗教問題、自然災害などがこれほどの頻度で伝えられる昨今、終わりの時代の様相がかなり強く出始めていると考えるのは自分だけでしょうか。

聖書をマンガで読んでみる

 

まとめ

ここまでお読みになっていかがでしたか。教会に馴染みのない方には全く聞き覚えのない話ばかりで、戸惑っている方もいるかもしれませんね。実はここまでご紹介した話は、イエス・キリストが十字架で死なれ、3日目によみがえり、40日後に昇天されて以降、クリスチャンたちが2000年かけて信じ続けてきている(現在進行中)ことなのです。
奇想天外だったり、全く初めてという方が多いとすれば、クリスチャンである私たちの伝え方が、まだまだ足りなすぎるのだろうとも思わされます。
もう少しだけお付き合いください。

戸は閉じられる

先に読んだ5人の思慮の浅いおとめたちは、夜中に油を買いに出かけている間に、花婿と花嫁を送って行くことができず、遅れて到着したときには花婿の家の戸は閉じられ、婚宴は始まり、そして中には入れてもらえなかったとありました。油を分けてもらえず、婚宴にも入れてもらえなかったところにこのお話のある意味厳しさを感じます。いつか戸は閉じられる時がくるのです。
一方ではこの最後の時がまだ来ていないことは、あなたも私も御国に至る(この戸の中に入れる!)大きな希望が開かれているとも言えます。

ステップがある

まず個々人においては、これらの箇所から語られる神様のメッセージに応答して、心に受け入れ、聖書に従って生きるように方向転換をすることだと思います。生き方において完全では無くても、赦しの神はその都度支えて共に歩んでくださいます。そのことが、まさに油を携えていることではないでしょうか。

もう一つ、神様の歴史の流れの中で大切なことを見落としてはならないと思います。それは、先程読んだマタイ24:14にあるように、さまざまな終わりの予兆がある中で、最終的には全世界に御国の福音(イエス・キリストによる救いのメッセージ)が伝えられて、その後に最後の時が訪れるということです。
これは、信じた者一人ひとりが神様の愛と救いのメッセージを伝える者となっていく、その役割が委ねられていることを意味しています。

示されている祝福

そして最後に、一番肝心な、神の御国について聖書はどのように語っているかを何箇所か見て終わりたいと思います。
神の御国にはいのちの水が流れ、のろいも闇もない、死もなく、そして痛みも涙もぬぐわれるところだと語られています。この地上の不条理の一切から解き放たれ、朽ちることのない体が与えられ、本当の自由がそこにはあるのですね。天地万物の創造者にして歴史を支配している唯一の神のもとにいくとき、それが与えられます。どんなときでもそこに目を向けていたいですよね。

私たちが戸を閉じられて締め出されるのではなくて、お互いにこの大きな、そして永遠に至る祝福に与ることができることをお祈りいたします。それがいつのことかは誰も分からないということを覚えながら。

では。

御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、 
都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。 
のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、 
御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。 
夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。 
黙示録22:1~5

また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、 
人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。 
黙示録21:3~4

兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。 
ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。 
というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。 
第一コリント15:51~52

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