ペテロとパウロ。初代キリスト教会の2大リーダーについて【ざっくり解説】

ペテロトパウロ

こんにちはTaroです。
キリスト教でよくその名を耳にするペテロパウロですが、皆さんはどういう人かご存知ですか。
聖書や教会にあまり馴染みのない方々には、よく聞くわりに一体どういう人なのか、何をした人なのか、どっちがどっちだかよく分からないという方も多いかもしれません。

刑事コロンボ
刑事コロンボも「ピーター」

一方で、ペテロは英語でPeter(ピーター)、パウロはPaul(ポール)と表記され、ペテロやパウロを名前にもつ人々も世界では数多くいます。
有名なところでは、ピーター・ドラッカー(経営学者)、ピーター・オトゥール(俳優)、ピーター・ポール&マリー(フォークグループ)、ジャン=ポール・サルトル(哲学者)、ジャン=ポール・ゴルチエ(ファッションデザイナー)、ポール・マッカートニー(ミュージシャン)、ポール・ゴーギャン(画家)等など枚挙にいとまがありません。あっピーターで言うと刑事コロンボの名優ピーター・フォークなどもいましたね。(上げた名前は全般的にちょっと古いですかねw)。また人名ではないですが、立教大学の別称はセント・ポールでしたね。

今日はそれほどに世界に大きな影響を残したと思われる、初代教会の指導者ペテロとパウロについて駆け足で見ていきましょう。


Taro
Writer ProfileTaro

プロテスタント教会の信徒で新生宣教団の職員。前職から印刷に関わり活版印刷の最後の時代を知る。 趣味は読書(歴史や民俗学関係中心)。明治・江戸の世界が垣間見える寄席好き。カレー愛好者でインド・ネパールから松屋のカレーまでその守備範囲は広い。

ペテロについて

ペテロの生い立ちとなりわい

ペテロを弟子にするイエス
ペテロを弟子にするイエス

ペテロは、ガリラヤ湖畔ベツサイダ出身でカペナウムに住む漁師でした。
ちなみにペテロははじめからペテロと呼ばれていたわけではありません。バルヨナ・シモン(サイモン)という名でした。バルヨナとはヨナ(ヨハネ)の息子という意味で、シモンは12部族の一つシメオン族にちなむ名前です。
一方ペテロとはギリシア語で「岩」の意味で、ヘブル語ではケパと言います。それはイエスによってつけられた愛称(ニックネーム)なのですが、それが後に彼自身をあらわす名前となりました。

彼はユダヤ人として必要な旧約聖書の知識はもっていたと思いますが、体系的な学問をしていたとは考えづらく、無学かそれに近い状態だったのではないかと思われます。(使徒4:13)
また、イエスによってその姑が癒やされる記事(マタイ8章、マルコ1章、ルカ4章)から、結婚していたであろうことが伺われます。

ペテロのイエスとの出会い

ガリラヤ湖で漁をしていたシモン(ペテロ)と兄弟アンデレをイエスは見出して、声をかけられました。

わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう
(マタイ4:19)

それに対して彼らはすぐに応じて網を捨てて従ったとあります。
また、イエスは出会いの時に次の言葉もかけられました

あなたはヨハネの子シモンである。あなたをケパ(訳せばペテロ)と呼ぶことにする
(ヨハネ1:42)

ペテロはイエスの12弟子の一人12弟子の内、最初に声をかけられたのがアンデレとペテロだったのですね。
そして最初の時からイエスは彼にペテロという愛称をあたえたのでした。
聖書の記述は簡潔なので、行間にどのような心の動きがあったのかはわかりませんが、不思議にも彼らは全てを捨てて従ったとあります。
この出会いで彼の人生は大きく変わることになったのでした。

真っ直ぐな性格で、少しおっちょこちょい?

復活の主のもとに走るペテロ(右)
復活の主のもとに走るペテロ(右)

ペテロは人間味あふれる性格で、聖書はそれを隠さず記述しているところがまた嬉しいですね。

イエスを真似て荒れる湖に足を踏み出し、実際に歩きはじめたものの、風を見て怖くなり沈みかけたところをイエスに助けられて「なぜ疑ったのか」とたしなめられたり(マタイ14章)、イエスの姿が栄光に輝き、モーセとエリヤと会話された様子を目撃したペテロは、興奮で何を言ってよいかわからず「3人のために小屋を3つ建てましょう」などとパッと言ってしまったり(ルカ9章)、イエスが公生涯最後の段階で弟子たちの足を洗って愛し仕える模範を示そうとしたときも、「そんな事決してなさらないでください」と言い、「それならお前はわたしと何の関係もなくなる」とイエスに返されると、今度は「足だけでなく、手も頭も」と言ってしまいまた諭されるなどという場面もありました。(ヨハネ13章)
また、復活の主に出会い豊漁の奇跡を見せられたときも、それが主だとわかった途端に裸でいることが恥ずかしくなり、服をまとって湖に飛び込んだところなども微笑ましいですね。(ヨハネ21:7)
皆さんの周りにも思ったことをすぐに口にする、似たタイプの人はいませんか。何か憎めないですよね。
そんな人間味あふれるペテロをイエスはそのまま愛されて、その失敗や不完全さも受け入れて成長へと導いたのだと思います。

挫折(イエスを3度否認する)と回復

ガリラヤで復活の主に会うペテロ
ガリラヤで復活の主に会うペテロ

真っ直ぐで熱血漢でもあり、また弟子たちの年長者でリーダー格でもあったペテロは、イエスを愛する思いにおいて人後に落ちない自信があったものと思われます。
最後の晩餐で、「あなたにどこまでもついて行きます。あなたのためには命も捨てます」と宣言したにもかかわらず(ヨハネ13章)、イエスが捉えられてからは、イエスの予告通り、鶏が鳴くまでに3度イエスを否認してしまいました(ヨハネ18章)。

イエスが葬られた後、ガリラヤに戻り漁をしていたペテロに復活の主が現れてくれました。
ほんの数日前に3度イエスを否認したペテロにイエスは3度「私を愛するか」と問いかけられ、恐れのためには平気で師をも裏切る自分自身への責めもあったことでしょう。ペテロも謙虚な思いで「愛します」と3度応答しました。その度にイエスは「わたしの羊を飼いなさい」と言われ、赦しと癒しと使命をお与えになりました。

その後のペテロ

心の痛みから解放されたペテロは約束の助け主である聖霊の力も受けて、その他の弟子たちとともに劇的に変えられていきます。
その様子は使徒行伝に詳しく記されていますが、それからペテロを中心に、復活のイエスがキリスト(救い主)であるという宣教が始まり、エルサレムから福音が広まっていきました。

ペテロの最後は聖書に記述がなく、確かな資料もないらしく絶対とは言えないのですが、伝承によると皇帝ネロの迫害によってローマで殉教したのではないかと言われています。

ローマのヴァチカン市国にある有名なサン・ピエトロ大聖堂はパウロの墓の上にその追悼のために建てられたということだそうです。サン・ピエトロとは聖ペテロのイタリア読みです。
マタイ16章18~19節には次のように語られています。

そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。
わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう。

鍵を持ったペテロ
ペテロは、絵画などでは
鍵を持った人物として描かれることが多い

これはイエスがペテロに向かって語った言葉ですが、カトリック教会では、この言葉をもってペテロが教会の礎であり、ローマ教皇はペテロの後継者としています。サン・ピエトロ(聖ペテロ)大聖堂が世界最大級の立派な寺院として建てられているのもその現れと言えるでしょう。

一方、プロテスタント教会では、その前の16節のペテロの信仰告白「あなたは生ける神の子キリストです」が教会の礎であり、神権の鍵は特定の人に付与されるものではなく教会に与えられたものであるとしていて、主張に違いがあるようです。原語のギリシア語では「ペテロ」は小岩を意味し、「この岩の上に」の岩は巨大な岩盤を意味することから、「この岩」というのがペテロそのものを指していないという理解によるもののようです。

いずれにせよ、失敗も挫折も経験したペテロが、再び引き上げられてイエスがキリストであることを大胆に宣教し、新しく生まれてきた主にある交わり(教会)の主要なリーダーとなったことは異論のないところでしょう。

また、ペテロは新約聖書の「ペテロの手紙1」「ペテロの手紙2」を執筆しています。
当時迫害によって、各地に散らされていたキリスト者たちを励ますためにペテロはこの手紙を書きました。ペテロ自身もみことばを語ったゆえに牢獄に入れられた経験があったので、そのような状況にあっても失望することなく、むしろ信仰をもってイエスを証していくことの大切さを語っているのです。

 

パウロについて

パウロの生い立ちとなりわい

パウロ
パウロは西洋絵画では
剣や巻物と一緒に描かれることが多い

それでは次に、もう一人の主要なリーダーであるパウロについて見ていきましょう。
この人は、生い立ちから性格から素養にいたるまで先に見たペテロとはまるで違っていたようです。

ローマの属州キリキヤのタルソという現在のトルコの南部、地中海にほど近い町で生まれました。ユダヤ人でしたがローマの市民権を生まれながらもっていたと言われます。
パウロという名はギリシア語で、ユダヤ名(ヘブル語読み)ではサウロでした。パウロはギリシア語とヘブル語の両方を使うことができたのだそうです。
ローマ市民権をもち、ギリシア語も話せるというのが大きな意味をもってきます。
聖書(当時は旧約聖書)に精通していて、パリサイ派の高名な教師ガマリエルの元で律法を学んだというバリバリのユダヤ教徒でした。テント作りを職業にし、結婚はせず生涯独身でした。

パウロのイエスとの出会い(目からうろこが落ちる)

聖書に最初にパウロ(サウロ)の名が出てくるのは、イエス・キリストが昇天した後のことです。
イエスの弟子たちが宣教を広めて行く「使徒行伝」(訳によっては「使徒言行録」、「使徒の働き」と表記するものもある)において、イエスをキリストと信じる人たちを迫害する人物として登場します。
それは、彼自身がイエスを神とは思わず、イエスの教えはそれまで信じてきた律法を守る教えを無視したり反対したりする危険なものと考えていたからで、イエスの弟子たちの群れを襲って牢にいれたり、実際に自ら手を下すことはなかったにせよ、弟子の一人であるステパノの殉教のときにはその殺害に賛成の立場で立ち会っていました。

ダマスコ途上のサウロところが、ダマスコという場所に向かう途中、天からの光に照射され、復活の主イエスの声を聴きます。

ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照らした。彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答えがあった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。
(使徒行伝9:3~6)

サウロの改心この出来事で3日間目の見えなくなったパウロは、主の導きでやってきたアナニアの祈りで目からうろこのようなものが落ちて視力を取り戻し、洗礼を受けてイエスを信じる者になりました(使徒行伝9:18)。
私たちが普通に使う「目からうろこ」という言葉は聖書のここからきていたのです。ご存知でしたか。

伝道活動に入る

改心したパウロはダマスコの弟子たちと共に、大胆にイエスがキリストであることを語り始めました。
すると今度はパウロ自身がユダヤ人たちの反対にあい、命を狙われるようになります。エルサレムに逃れたパウロは、弟子たちの交わりに入ろうとしますが、弟子たちは迫害者であったパウロの改心をにわかに信じられず、簡単には受け入れられませんでした。そこでバルナバという信者がパウロの仲介役を買って出たため、パウロは教会の仲間に加わることができ、後にはアンテオケという場所を拠点にバルナバと共に宣教活動に励むようになりました。

異邦人への宣教に召される

パウロは宣教する先々で、多くのユダヤ人の反対と妨害に遭うことになりました。
使徒行伝13:46の箇所ではピシデヤのアンテオケという場所で、それまで神の言葉はユダヤ人に語られるべきものだったが、これからは異邦人(ユダヤ人以外の人々)の方に行くとはっきり語っています。
それまでユダヤ人だけのためのものだと思われていた神の教えは、全ての人(異邦人)にも開かれたものであり、自分はそのために召されたのだということを明確に意識していきました。

3回の伝道旅行

説教するパウロ異邦人への宣教において、パウロの生い立ちが重要な意味をもつようになりました。それは、ギリシア語が話せたこと。そして、ローマの市民権をもっていたことです。ギリシア語は当時の世界の共通語でしたし、ローマ帝国は当時の最優等国ですからその市民権をもつことは様々な特権に与るものでした。これらは彼の宣教旅行の大きな助けになったことでしょう。
彼は3回にわたりアジアからヨーロッパの地中海世界を旅して、各地にキリストの群れ(教会)を立ち上げていきました。

しかし、それらはやすやすとなされたものではなく、幾多の困難に遭遇しながらも聖霊の助けと主への信仰で切り抜け、乗り越えていったのでした(Ⅱコリント11:23~27)。
また、祈ったけれども取り去られないという何かの持病を抱えての働きでもあったようです(Ⅱコリント12:7~9)。

教会や若い弟子への手紙

手紙を書くパウロ新約聖書の後半には、前述のペテロの2つの手紙も含め、多くの手紙というものが収められています。そのうちパウロが書いたとされる手紙は本当に沢山ありまして、
ローマ人への手紙コリント人への手紙1と2ガラテヤ人への手紙エペソ人への手紙ピリピ人への手紙コロサイ人への手紙テサロニケ人への手紙1と2テモテへの手紙1と2テトスへの手紙ピレモンへの手紙
で13
にもなります。

これらはタイトルにある通り、それぞれの地域の教会(信徒の集まり)や、若い弟子たちに向けて書き送った手紙で、ギリシア語で書かれていました。
伝道旅行の結果あちこちで生まれていた主の群れの信仰を励ましたり、問題への対処を指導したり、自身で出向いて語れない分を補いたい思いもあったことと思います。
何より彼にとって気がかりだったのは、せっかく起こされた群れが異なる教えによって変質して本当の救いが見えなくなってしまうことだったようです(ガラテヤ1:6~9)。そして、これらの手紙はその地域で回し読みされたとのことです。
後に多くの手紙が教会によって確認され、神がそのご意志(ことば)をその筆者を通して現していると理解されたこれらの手紙が新約聖書の正典として認知されていきました。

その後のパウロ

パウロの最後もペテロ同様に聖書に記述がありません。こちらも皇帝ネロの時代にローマで処刑されたと言われています。
パウロがローマへ行くことになった経緯は聖書(使徒行伝21章から最後まで)に書かれていまして、それはエルサレムにてアジアから来たユダヤ人たちに殺されそうになったことから始まります。その騒動からエルサレムの議会に引き出され、パウロ自身がローマ皇帝に上訴したために、エルサレムでの裁判とはならず、ローマへ護送されて行くことになったのです。
パウロがローマ皇帝に上訴した目的は、身の安全のためとか自身の潔白の証明のためではなく、ローマの中枢にキリストの福音を証しするためであったと思われます。
ローマでは比較的自由が与えられていたようで、自分で借りた家に2年住み、訪問者は皆迎え入れ、妨げられることなく神の国を伝え、イエス・キリストのことを教え続けた、というところまでで聖書の記述は終わっています(使徒28:30~31)。

以後、ローマでは、紀元313年ミラノの勅令でキリスト教が公認されるまで、多くの迫害がありました。
しかしそれにもかかわらず信者は増え続け、さらに380年にはローマの国教にもなり、世界中に広がっていきました。
その端緒(たんしょ)は、パウロのこのローマ行きの決断にあったと言っても過言ではありません。

 

ペテロとパウロ

一緒に描かれることも多いペテロとパウロ
一緒に描かれることも多い
ペテロとパウロ

それぞれの足跡を駆け足で見てきましたが全くタイプの違う二人でしたね。
イエスの最初の弟子として寝食をともにしたペテロに対して、はじめは反イエスの急先鋒だったのに復活のイエスの光と声に打たれて改心したパウロ。
学問に乏しかったペテロに対して、高度な学問を受け、ギリシア語を話し、ローマの市民権をも手にしてエリートだったパウロ。
感情豊かなペテロと理論家パウロ。そんな二人でしたがその関係性はどうだったのでしょうか。

ペテロとパウロの関わり

先にお伝えしたように、パウロはイエスの弟子たちへの迫害者からにわかにイエスの弟子になったので、エルサレムの弟子たちに受け入れられるのには時間がかかったと言われています。
使徒行伝9:26~29でバルナバの仲介により受け入れられた様子がわかりますが、その時がパウロとペテロが接点をもった最初だったかもしれません。そしてペテロは弟子たちの中心人物でした。

その後の使徒行伝の記述では、ペテロとパウロのそれぞれの働きが交互に記されています。
そして、15章では「エルサレム会議」と言われる、(異邦人が)救われるためには律法遵守も条件に含まれるかという問題をエルサレムで議論する様子が記されていますが、ペテロの証言に続いてバルナバとパウロが証言をしています。
この会議では、イエス・キリストを信じた異邦人たちに、偶像に供えた物、血と絞め殺した物、不品行を避けるようにということだけを申し送って彼らを律法遵守から解放すること、救いは神の恵みであり、信仰によってのみ与えられるということが結論とされ、明示されました。

真理を巡ってペテロに直言するパウロ

ガラテヤ人への手紙2章に次のような、パウロによる記述があります。

ところが、ケパがアンテオケにきたとき、彼に非難すべきことがあったので、わたしは面とむかってかれをなじった。(ガラテヤ2:11)

一体何があったのでしょう。それは何だったかというと、パウロの非難は、「ケパ(ペテロ)が異邦人と食事を共にしていたのに、ユダヤ人が現れると彼らに気を遣って異邦人と疎遠になっていったこと」に対してでした。
そのペテロの行為の意味するところは、律法と律法に基づくしるしを身につけていたユダヤ人が、それを背景にもたない異邦人に対して区別をするということで、「聖められているのは律法を行う者たちなのだ。やはり救いの条件として大切なのは律法を守ることなんだ」というメッセージを世に示してしまうことだったからです。
もしそうなってしまうと十字架の犠牲や赦しの恵みなどはどこかへ行ってしまいます。
パウロは弟子としては後輩ですが遠慮がないですね。しかし、それはこのことが揺るがすことのできない重要なことだったからでした。
このことは、先に述べた「エルサレム会議」以前の出来事だったようですが、パウロは既に救いの本質に目が開かれていたのですね。

パウロの手紙を認めるペテロ

一方、ペテロがパウロについて言及している箇所もあります。それは、ペテロの第二の手紙の最後の方で、次のような内容です。

また、わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。(Ⅱペテロ3:15~16)

ペテロがパウロのことを、宣教の同志として慕わしく思っていたことが、この文からうかがえます。
新約聖書の27巻全てが正典と認知されたのは397年カルタゴ会議でのことですが、「ほかの聖書についてもしているように」とあるように、ペテロはパウロの数々の手紙を既にそれと認識しているような書き方ですね。

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まとめ

いかがでしたか。このように全く異なる特徴をもつ二人でしたが、完全に一致しているところがあります。
それは、主イエスを命がけで愛し、信じ、従う熱い心でした。その原動力は、イエスの無条件の愛に感動し続けたことにあったのだと思います。

信仰を論じ合うペテロとパウロ

一人は裏切り否認するというマイナスから、もう一人は迫害者というマイナスからのスタートでしたが、二人ともイエスの十字架による赦しをしっかりと受け取り、その愛を深く心に刻んだのでした。

それぞれ違う場所、違うタイミングで呼び出された二人は、それぞれの使命を全うして天に帰りました。
この二人が、イエス・キリストの福音を世界へ伝播させるのに果たした役割は非常に大きかったと言えるでしょう。そして、それぞれの良いところを最大限に活かして、要所で働きをなさしめたのは神様だと思います。

私たちも同様に、皆不完全でありながらもユニークな存在で、それぞれ異なる性質、異なる特技をもつものですが、創造なる神様の手によるなら、きっとより良く生きることができるのではないかと思います。
自分が天から与えられた命の意味や役割とは一体何でしょうか。
ではまた。

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