内村鑑三『後世への最大遺物』を読む

内村鑑三『後世への最大遺物』を読む

こんにちはTaroです。
最近、宮崎駿監督の映画『君たちはどう生きるか』がゴールデングローブ賞を受賞しましたね。ご覧になりましたか。
宮崎駿監督がこのタイトルをつけたのは、同名の児童文学、吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』を幼いころに読んで感動したためと言われています。内容は違いますが、こちらも1937年(昭和12年)以来、今日まで読みつがれている名著です。
最近では司馬遼太郎が教科書のために描き下ろした『二十一世紀に生きる君たちへ』という文章などもあり、各分野で名を成した先人たちが、講演で、文学で、また映画などでこれからの時代を生きる若者たちにエールを送るといったことが繰り返しなされてきていて、それはとても素晴らしいことだと思います。

内村鑑三今日は、そんな中でもさらに古い時代に活躍した、明治時代の思想家、キリスト者の内村鑑三が残したメッセージ『後世への最大遺物』をご紹介しようと思います。
この『後世への最大遺物』は、1894(明治27)年に箱根で開かれた基督教青年会(YMCA)の第六回夏期学校でなされた内村の講演を書き起こしたものです。
語り口調が生きているので一緒に聴いているかのような臨場感と言いますか、熱気のようなものが感じられます。そして、現代の我々にもよく分かる平易な言葉で語られていて、逆に、今の時代に、これほどシンプルな言葉で心を掴む講演をする人は果たしているだろうかという気さえおこってきます。これからどう生きようかと道を探している若い方々には特におすすめしたいと思います。


Taro
Writer ProfileTaro

プロテスタント教会の信徒で新生宣教団の職員。前職から印刷に関わり活版印刷の最後の時代を知る。 趣味は読書(歴史や民俗学関係中心)。明治・江戸の世界が垣間見える寄席好き。カレー愛好者でインド・ネパールから松屋のカレーまでその守備範囲は広い。

 

内村鑑三という人物、明治という時代

さて、本の紹介に入る前に、内村鑑三の人となりや、彼が生きた時代がどういうものであったのかを簡単に見ていきたいと思います。

内村鑑三の生い立ち

新渡戸稲造、宮部金吾と共に 札幌農学校時代
新渡戸稲造、宮部金吾と共に
札幌農学校時代(内村鑑三は右端)

内村鑑三は江戸時代末期の1861年に江戸の高崎藩武士長屋で士族の長男として生まれました。1877(明治10)年に17才で札幌農学校に入学しますが、翌年そこで同級生だった新渡戸稲造、宮部金吾らと共に洗礼を受けてクリスチャンになりました。
ちなみに「ボーイズ・ビー・アンビシャス・イン・クライスト」(青年よ、キリストにあって大志を抱け)という有名な言葉を残したクラーク博士は、彼らの入学時には札幌を去った後でした。また、その年は西南戦争の年でもあり、本当の意味で武士の時代が終わりを告げようとするターニングポイントにあったのです。
内村や新渡戸は佐幕派(徳川親派)の士族だったため新政府の中枢からは外れた地位に進まざるを得ず、能力の高い若者が自らの命を誰のために捧げるべきか、どう生かしたらよいのか、相当に悩み考えたのではないかと思われます。
そのことは、後に彼らが農学校を卒業する時に、自分の生涯を二つのJのために捧げる(JesusとJapan)という誓いになって現れていきました。

「不敬」事件

卒業後内村は、開拓使民事局、農商務省の職員(彼の専門は水産)などを歴任、さらには25才の時に米国アーマスト大学で学び、帰国後、1890年に30才にして第一高等中学校(東大予備門)の嘱託教員に配属されますが、その年に山縣内閣の元「教育勅語」(明治天皇による教育基本方針)が発布されました。翌年1891年の1月にこの「教育勅語」の奉読式がもたれた際に、最敬礼をしなかったことが同僚教師や生徒によって問題視され、このことは新聞でも広く報じられ、人々は内村を「不敬漢」「国賊」と罵り、騒動は大きくなり外出も出来なくなるほどだったといいます。これがいわゆる歴史の教科書などにも記載されている「不敬」事件というものです。政府による中央集権化が強力に推し進められていた時代でした。

結局、教育勅語に低頭することは宗教的礼拝ではなく、国体への敬意の表現である、したがって「再拝」する、ということで学校側と折り合いがつき、事件は収束に向かいました。実際には「再拝」は流感に罹り病床にあった内村自身ではなく、内村を教員に推挙した木村というやはりキリスト者の代理人が行ったといいます。そして内村は翌2月に依願解嘱しています。

自宅療養となり、意識朦朧となる中、家に押しかける抗議者たちに身を挺して応対したのは妻のかずであったと言われています。内村は回復していきますが、残念ながら、この妻も心労重なり同じ流感に罹ってしまい、2か月後に天に召されていきました。

この妻を見送る経験は、後に19才の娘ルツを天に送る経験とも相まって、「次に行く場所=天」をはっきりと自覚して生きる生き方、永遠の世界を知ってこの地を勇ましく生きる生き方、別れた愛すべき人との心の中での対話を意識して生きる生き方(地上に残された自分は、別離の悲嘆に暮れるのではなく、先に逝った人たちの分も善をなせ、と彼らが励ましてくれているとの意識をもっていたようです)につながったと言われています。

余談ですが、病気療養中の内村に襲いかかろうとする抗議者たちに立ち向かったもう一人の人物に、柔道の講道館を創設した嘉納治五郎がいたと言われています。「内村くんの愛国心は俺の知るところだ。諸君が彼をやっつけると言うなら、自分が代わりにお相手をしよう!」と言って暴徒を追い返したというのです。嘉納は不敬事件の一週間後に海外視察旅行から帰国したばかりだったそうですが、帰国後この事件を知り、かねてより内村の愛国者としての生き様とキリスト者としての人格をよく理解していて、同情的だったのではないかと思われます。嘉納自身が義侠心(ぎきょうしん)の強い人物として知られています。

教育者として著述家として

第一高等中学校を追われた内村は大変厳しい生活を強いられたようです。
ミッションスクールの教員や、キリスト教関係の著述をしながら生計を立てていましたが、その当時もキリスト教の出版で生活を立てるのは極めて困難で、借金をしながらの生活だったようです。一方で、そのような中、自身の「天職」について、また日本の「天職」についても考えを巡らせる貴重な日々であったとも言えるようです。
1894年の箱根でもたれた夏期学校は、「不敬」事件後3年半しか経っておらず、そんな中でのこの講演は、上記のような厳しい生活の中でなされたものですが、内村自身が自らの生き方を明確にし始めていたかのような印象です。
それでは、ご一緒に内容を見ていきましょう。

 

『後世への最大遺物』を読む

序論 人生「予備学校」

この講演の起承転結の「起」の部分として、次のような話をします。
「若い頃にせっかくこの世に生を受けたのだから功名を成して往きたいという思いが湧いた。しかし、クリスチャンになって、地上の生涯よりも天上に至ることに関心が出てきた。そして、功名を成すなどというのは個人的な欲の世界であって、そんな考えは持つべきではないと周囲(教会)からも勧められ、自分も封印して生きることを考えた」というのです。
ところが、一方で別な考えが湧いてきます。それは、「虚栄のための成功というのはつまらないことだけれど、地上の生涯を天国に至る予備校にたとえるならば、学校の卒業生が記念に植樹していくとか、奉仕活動をするのと同じように、この地上に意味ある貢献を成して去るというのは、まさにクリスチャン的な清い考えなのではないか。」と最初に講演の前提と言いますか、話の方向性を語ってしまうのです。

…すなわち私に五十年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、このわれわれを育ててくれた山、河、これらに私が何も遺さずには死んでしまいたくない、との希望が起こってくる。ドウゾ私は死んでからただに天国に往くばかりでなく、私はここに一つの何かを遺して往きたい。それで何もかならずしも後世の人が私を褒めたってくれいというのではない、私の名誉を遺したいというのではない、ただ私がドレほどこの地球を愛し、ドレだけこの世界を愛し、ドレだけ私の同胞を思ったかという記念物をこの世に置いて往きたいのである(p17)

そして、天文学者ハーシェルが若き日に友と語り合った次の言葉を例に引きます。

「わが愛する友よ、われわれが死ぬときには、われわれが生まれたときより世の中を少しなりとも善くして往こうではないか」(p18)

そしてハーシェルが天文の分野で果たした功績を語り、

われわれもハーシェルと同じに互いにみな希望Ambition(アンビション)を遂げたくはござりませぬか。…この点についてはわれわれ皆々同意であろうと思います。(p19)

これは、基督教青年会というある意味では価値観を共有している若者に対して語っているので、講演の前提も共有しやすかったと思いますが、講演の内容は、具体的な例話を用いながらキリスト教信者ばかりでなく、誰もが共感できる普遍的な真理を示しているように思います。

実業家になること(お金を集めお金を遺す)

それでは、われわれは実際に後世に何を遺(のこ)すことができるだろうかと問いかけます。
内村はおすすめの第一番目は、お金を集めて社会に遺すということだと述べています。
どんな働きでも、どんな問題でもお金がいる。この中から実業家が起ってもらうことを願う、と語りました。
ジラートというフランス人の商人がアメリカに渡り、莫大な富を築き、その財産で世界一の孤児院を建てるように遺言して地上を去ったという事例や、ピーボディーが黒人の教会や福祉に莫大な献金をしてきたといった話をしながら、その重要性を説きました。
しかし、お金集めができる人は、特別な能力の持ち主で、やはり誰でもがそのようにできるわけではない。お金集めの才のない人はどうしたらよいのかと続きます。

事業をおこなうこと

デイヴィッド・リビングストン
デイヴィッド・リビングストン

お金を集める才能はなくても、それを有意義につかうことができる人がいる。それは事業を起こすことで可能だといいます。
宣教師にして探検家でもあったリビングストンを挙げながら、彼がアフリカ宣教に及ぼした功績を語ります。
そして、名もなき農民が、江戸時代初期に芦ノ湖の水を裾野側に隧道(すいどう)を掘って引いたとされる、箱根(深良)用水の話をしながら、灌漑(かんがい)事業が痩せた土地にもたらした恵みを語り、土木その他の事業が後の世を豊かにすると勧めました。

思想を残すということ

頼山陽
頼山陽

しかし、実業家になる才能も、事業家になる才能も持ちあわせない者は、後世に何も遺すことができないのか。それらは社会的地位や財力その他、大掛かりな背景がないと難しい。でも、それらがない人には、思想を遺すということがあるのではないかと続きます。

そしてここで取り上げたのは、頼山陽(らいさんよう)という江戸後期の思想家で、彼が著した『日本外史』という歴史書が後に明治維新の思想的支柱になったことを語ります。頼山陽は、西欧のアジア進出の時代、徳川の封建時代をやめて天皇の元で日本を一つにまとめないとこの国は続かないとの思想をもっていた。けれども、自分の時代では実現が難しい。それで自分の思想を『日本外史』に込めて発表したというのです。

彼の国体論や兵制論については不同意であります。しかしながら彼、山陽の一つのAmbition(アンビション)すなわち「われは今世に望むところはないけれども来世の人に大いに望むところがある」といった彼の欲望は私が実に彼を尊敬してやまざるところであります。(p40)

また、イギリスの目立たぬ路地裏に住むジョン・ロックという病弱な哲学者が著した『人間悟性論』がフランスに渡り、モンテスキューやルソーに影響を与え、フランス革命につながり、ヨーロッパ中の国の有り様に影響を与え、アメリカ合衆国建国の遠因にもなったことを紹介しています。
思想を文字に著し、世に示すことは、元手のいらない後世への大事業であると言うのですね。内村鑑三の文学の定義は、「その人自身の考えや心情を世に表す手段であり、この世の悪に対して筆でなす戦いである」ということのようです。

ルーテルが室(へや)のなかに入って何か書いておったときに、悪魔が出てきたゆえに、ルーテルは墨壺を取ってそれにぶっつけたという話がある。歴史家に聞くとこれは本当の話ではないといいます。しかしながらこれが文学です。われわれはほかのことで事業をすることができないから、インクスタンドを取って悪魔にぶっつけてやるのである。…将来未来にまでわれわれの戦争を続ける考えから事業を筆と紙にのこして、そうしてこの世を終わろうというのが文学者の持っているAmbition(アンビション)であります。(p44~45)

教育者になること

ウィリアム・スミス・クラーク
ウィリアム・スミス・クラーク
(クラーク博士)

しかし、思想を著すことができない人、文才がない人はどうしたらよいのか。何も後世に遺せないのか。
文学者にはなれなくても、教育者になるということはできるのではないか。
内村は彼が留学したアーマスト大学の教頭の言葉を引いて、大学において学者なら給料次第で結構集まるが、教育者となるとそうはいかない。学問を知っていることと、それを教えることは別な才能であると言い、教師になることの意義を語ります。
例話として挙げたのは、クラーク博士のことでした。彼は直接講義を受けてはいないけれども、植物学者としてのクラーク博士を第一等の学者であると思っていたようです。ところが、アメリカ留学した際に学者クラークの話をしたら笑われたというのです。
しかし、内村はクラークの教師としての側面については大変評価しています。それは、学問への興味を学生から引き出す能力でした。そして赴任の短期間で多くの若者にキリストを伝え改心に導いた、その人格的な感化力については言うまでもありません。

文学や教育は実業や工業などのような大掛かりなものでなく、独立でできる事業ゆえにハードルは低いのかもしれない。しかし、それとてやはりそれに向いた者、才能が必要である。しかも、これまで語ってきたお金を集める、事業をなす、思想を著す、教育を施す、これらは大変有益なものには違いないが、最大遺物とは言えない。ときにはマイナス面も無くはない、と語ります。そして最後に、誰でもが為せる、後世への最大遺物があるというのです。

後世への最大遺物とは何か

それならば最大遺物とは何であるか。私が考えてみますに人間が後世に遺すことのできる、そうしてこれは誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりがあって害のない遺物がある。それは何であるかならばであると思います。…しかして高尚なる勇ましい生涯とは何であるかというと、…すなわちこの世の中はこれはけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずることである。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈物としてこの世を去るということであります。その遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないかと思う。(p58)

ここで内村は、トーマス・カーライルの話をします。彼はカーライルの著書を愛読していて、その業績を大変尊敬していたようです。しかし、ここでは視点を変えて、業績(多くの著書)よりはその生き様(いきざま)や有り様(ありよう)に目を止めているのです。
それはカーライルが著した代表的な書『フランス革命史』にまつわる話でした。
カーライルがほぼ生涯をかけてその原稿を書き上げた時、友人のミルに評価を求めるために貸したのだそうです。ミルは自宅に持ち帰り、さらにそこに訪れた友人が興味を示したため、一晩の約束で又貸しをします。ところが、2人目の友人は夜中に読んで寝てしまい、朝になって散らばっていた原稿を家政婦さんがストーブの焚付に使って、数十年心血注いだ『革命史』の原稿は一瞬のうちに灰になってしまったというのです。それを知ってカーライルは放心状態になり、しばらくは何も手につかなくなってしまいました。しかし、そこで彼は、天の声か心の声か、次のような言葉に励まされ、書き直していくのです。

「トーマス・カーライルよ、汝は愚人である、汝の書いた『革命史』はソンナに貴いものではない、第一に貴いのは汝がこの艱難(かんなん)に忍んでそうしてふたたび筆を執ってそれを書き直すことである、それが汝の本当にエライところである、実にそのことについて失望するような人間が書いた『革命史』を社会に出しても役に立たぬ、それゆえにモウ一度書き直せ」(p62~63)

カーライルのエライことは『革命史』という本のためにではなくして、火にて焼かれたものをふたたび書き直したということである。もしあるいはその本がのこっておらずとも、彼は実に後世への非常の遺物を遺したのであります。たといわれわれがイクラやりそこなってもイクラ不運にあっても、そのときに力を回復して、われわれの事業を捨ててはならぬ、勇気を起こしてふたたびそれにとりかからなければならぬ、という心を起こしてくれたことについて、カーライルは非常な遺物を遺してくれた人ではないか。(p63)

内村鑑三がこの講演で一番言いたかったことは、何をなしたかといった、成果を形に遺していくことも立派なことだけれども、どう生きたか、何を考えたか、どんな苦労をしてきたのかという生き様こそが最大遺物であるというのですね。そしてそれは誰もが遺すことのできる遺物であるというのです。

具体例としてこの後、苦労をして学び日本各地の農政に貢献した二宮金次郎の話、マウント・ホリヨーク・セミナリーという女子学校を建てたメアリー・ライオンの建学の精神、徳川家康の弱きに着くエピソードなども語っていますが、ここでは取り上げませんのでどうぞお読みになってください。

 

本講演(本書)から影響を受けた人たち

最後に、この時の講演、あるいは本書を通して大きな影響を受けた人たちをご紹介します。
内村鑑三自身が、思想や、教育の成果を後世に遺したよい例と言えるかもしれません。

青山 士ハーシェルの言葉と土木事業の話に大きな刺激を受けたとされ、東京帝大土木科卒業後、パナマ運河開削に唯一の日本人技師として参加。荒川放水路、信濃川大河津分水などの難工事を手掛ける。
大賀一郎日本の植物学者。古代ハスの種を見つけ、挫折を繰り返しながらカーライルの逸話に励まされながら開花、育成に成功し、大賀ハスと名付けられる。
青木義雄27才のとき箱根の講演に参加。実業家になり金銭面で内村の伝道をささえた。
天野貞祐中学時代に本書から影響を受け、内村の聖書研究会に無欠席で参加。一高の校長、第三次吉田内閣で文部大臣となり、後に獨協大学の創立者となる。
矢内原忠雄一高の学生時代から内村の聖書研究会に出席。後に東大の総長になる。自らも内村と同名の「後世への最大遺物」というタイトルで講演を行い、内村も取り上げなかったような無名人の中からでも、世の役に立つことを勧めた。
森  敦本書を座右の書として常に身近に置き、その内容に鼓舞されて生きていたという。60才の時、小説「月山」で芥川賞を受賞。世間から無用視された「じさま」の、山村の荒れ寺に籠もりながら割り箸を作る作業で自らを高めようとする姿から、内村の言う「勇ましく高尚な生涯」を見出して著した。

これらの人たち以外にも、小山内薫、志賀直哉、有島武郎、正宗白鳥など深く関わった人や、距離を置きつつもインスピレーションを受けた柳宗悦、武者小路実篤など、本書以外のところで内村と出会い、大きな影響を受けた文学者や著名人は数々ありました。

そして、それこそ矢内原忠雄が講演で語ったように、上記のような各界で著しい貢献をした人々だけではなく、自分の出来る場面で、環境で、目立たぬ貢献をして行った人たち、あるいは高尚な生き様を残してこの地上を去っていった名もない人たちが数多あったであろうことは想像に難くありません。

 

まとめ

この講演がなされたのは内村鑑三34歳の時でした。
先に見ましたように、彼は「不敬」事件では世の中から批判を受け、教会からも逆に非難され、愛する妻を失い、職も追われ、経済的な困窮も味わってきました。
その余韻冷めやらぬ時期になされたこの講演には、彼でなければ語れない奥行きがあるように思います。

とにかく反対があればあるほど面白い。われわれに友達がない、金がない、学問がないというのが面白い。われわれが神の恩恵を享け、われわれの信仰によってこれらの不足に打ち勝つことができれば、われわれは非常な事業を遺すものである。…これらすべての反対に打ち勝つことによって、それで後世の人が私によって大いに利益を得るにいたるのである。…それゆえにヤコブのように、われわれの出遭(であ)う艱難(かんなん)についてわれわれは感謝すべきではないかと思います。(p73)

その後の内村は、伝道活動や聖書研究を行う一方、萬朝報の記者となり、足尾銅山鉱毒事件への関わりや、戦争廃止論(日露戦争反対)を打ち出すなど、キリストの教えに裏打ちされた独自の言論活動を行っていきました。その内容についての評価は一様ではないとは思いますが、この講演から36年、70歳で生涯を終えるまでの生き様は、二つのJに仕える、勇ましい高尚なる生涯であったと言えるのではないかと思います。まさに、自ら語った通りを生きた骨太な生涯だったのではないでしょうか。
そして、それは、

「神の愛につながっているなら実を豊かに結ぶ」(ヨハネ15:5、9参)
「わたしたちの国籍は天にある」(ピリピ3:20)
「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」(ヘブル13:5)

といった聖書にある神の約束への信仰が根底にあったということは言うまでもありません。

私たちも与えられている能力と時間で、どういう分野であっても、何か少しでも、この地上を良くするために過ごして天に帰っていきたいですよね。そしてもし私たちの生き様や後ろ姿が誰かを励ますことになるなら、それは最高なことだと思います。

最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。 
あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいますであろう。
(ピリピ4:8~9)

Taro

引用文献:『後世への最大遺物・デンマルク国の話』 (内村鑑三著) 岩波文庫
参考文献:『読んでおきたい日本の名作 デンマルク国の話ほか』(内村鑑三著)教育出版
     『我々は後世に何を遺してゆけるのか』 (鈴木範久著) 学術出版会
     『内村鑑三 悲しみの使徒』 (若松英輔著) 岩波新書
     『「明治」という国家』 (司馬遼太郎著) NHK出版

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