聖書が由来のことばをご紹介 その3「タレント」「狭き門」

聖書が由来のことば3

わたしたちが日常生活の中で使うことばや慣用句には、歴史や文化、中国の古典、宗教の正典など、さまざまな由来があります。
これまで2回にわたり、キリスト教の正典である聖書に由来するいくつかのことばや慣用句をご紹介しました。(記事はこちら→その1その2)今回もまた、聖書の中に出てくるイエスの教えに由来する2つのことばを取り上げてご紹介したいと思います。


Sakura
Writer ProfileSakura

プロテスタント教会付属の幼稚園に通い、最初に覚えた聖書の言葉は「神は愛である」。ミッションスクールを卒業し、クリスチャンになってン十年。趣味は旅行とウォーキングとパンを焼くこと。

タレント

「タレント」ということばを聞いて、おそらくほとんどの人はテレビ番組やラジオ番組に出演している有名人、歌手や俳優などを思い浮かべるでしょう。そう、今日の日本では、「タレント」ということばは主に「芸能人」の意味で用いられています。この「タレント」が英語の“talent”に由来する外来語であるということは多くの方がご存知でしょう。

英語の“talent”には主に才能や素質、技量や手腕といった意味があります。また、才能がある人や人材を指すこともあります。「芸能人」も一般的にはある種の才能を持った人たちですから、その点では確かに“talent”と言えるでしょう。

お金のイメージこの“talent”の語源とされているのは、古代ギリシャ語の“talant”(タラント)または“talanton”(タラントン)です。これらは金や銀の重さを量る重量の単位として用いられ、そこから高価な貨幣の単位としても用いられるようになりました。重量、貨幣の単位であった“talant” または“talanton”(ラテン語では“talentum”)から派生した“talent”が、なぜ才能という意味を持つようになったのか?それは、聖書の中に出てくるあるたとえ話に由来していると言われています。

「タレント」(“talent”)の持つ才能という意味の由来が聖書にある?少し意外に思われたかもしれませんね。今回は最初に、その由来になったと言われる聖書のたとえ話を取り上げたいと思います。

タラントを預かった3人の僕(しもべ)

聖書には、神の国(天国)について人々や弟子たちに教えるためにイエスが語った多くのたとえ話が出てきます。その一つが、イエスが弟子たちに向けて語ったタラントのたとえ話です。長くなりますが、「マタイによる福音書」25章にあるそのたとえ話を引用します。

また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。五タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントをもうけた。二タラントの者も同様にして、ほかに二タラントをもうけた。しかし、一タラントを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。すると五タラントを渡された者が進み出て、ほかの五タラントをさし出して言った、『ご主人様、あなたはわたしに五タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに五タラントをもうけました』。主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。二タラントの者も進み出て言った、『ご主人様、あなたはわたしに二タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに二タラントをもうけました』。主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。それなら、私の金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。』
(マタイ25:14-30)

主人は3人の僕にそれぞれの能力に応じて、自分の財産(タラント)を預けたとあります。「タラント」から派生した「タレント」は、そこから才能などの意味を持つようになったと言われているのです。才能とは神様から預かった財産(タラント)である、と言えばわかりやすいかもしれませんね。神様から預かった財産(タラント)は、神様からの贈り物を意味する賜物(たまもの)と置き換えることもできるでしょう。

さて、主人が3人の僕に預けた5タラント、2タラント、1タラントの財産、いったいどれほどの金額なのでしょうか?
1タラントは6千デナリ(当時のローマの銀貨)に相当し、1デナリは当時の労働者の一日の賃金だったのだとか。「マタイによる福音書」にある別のイエスのたとえ話にこんな箇所があります。

天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。彼は労働者たちと、一日1デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。(マタイ20:1-2)

1タラントをざっくりと今の通貨に引き直すとすれば、一日の労働者の賃金である1デナリが1万円で、1タラントは6千万円といったイメージでしょうか。そうすると、3人の僕は主人から、それぞれ3億円、1.2億円、6千万円の財産を預かったことになります。タラントのたとえ話に出てくる主人がどれほど大きな財産を持っていたか、どれほどの大金を3人の僕に預けたのかがわかりますね。
では、イエスはこのタラントのたとえ話を用いて、何を弟子たちに伝えようとしたのでしょうか?

良い僕と悪い僕

まず、タラントのたとえ話において、旅に出る主人から財産を預かった3人の僕がどのようにそれを管理したのか、旅から戻った主人が彼らに対してどのような反応を示したのかを簡単に整理してみましょう。

預かった財産どのように管理したか?主人の反応
僕A5タラント商売をして、財産を倍に増やした良い忠実な僕であるとほめ、より多くのものを管理させることにした。
僕B2タラント
僕C1タラント主人を恐れて、地の中に財産を隠した悪い怠惰な僕であると叱り、タラントを取りあげただけでなく、外の暗い所に追い出そうとした。

主人から預かった財産の額は僕Aと僕Bで異なりましたが、2人は同じように預かった財産で商売をしてもうけ、同じように「良い忠実な僕」であると主人にほめられました。そして、もっと多くのものを管理させよう、と言われました。一方、僕Cは預かった財産を地の中に隠しただけで、それを増やそうとしなかったため、役に立たない「悪い怠惰な僕」であるとひどく叱られました。主人の財産を減らしてしまったわけでもないのに、主人の僕Cに対する態度はとても厳しいものに思えますね。

先ほど見たように、3人の僕が主人から預かった財産はいずれも大金でした。主人が僕を信頼していなければ、そんな大金を預けることはしないでしょう。その主人の信頼に対して、僕Aも僕Bも主人に対する信頼をもって応えたのに、僕Cは主人を信頼しなかった。それぞれの能力に応じて与えられた財産の額の大小ではなく、主人に対する信頼と忠実な態度をもって財産を管理したか否か、それを問われたということです。

このたとえ話の中に出てくる主人は神様、僕は神様に仕えるクリスチャン、そして財産(タラント)は神様から各々に与えられた才能や能力、言い換えれば賜物のこと。クリスチャンは神様を信頼し、どのような賜物をどれほど与えられているかにかかわらず、各々が神様から与えられた、神様から預かった賜物の管理人として、「悪い怠惰な僕」ではなく、「良い忠実な僕」として働くことを求められているのだということを、イエスは弟子たちに伝えたかったのでしょう。
「タレント」が才能という意味を持つようになった由来と言われるタラントのたとえ話には、このような深い信仰的な意味があります。

主人を恐れた僕

3番目の僕ところで、「悪い怠惰な僕」であると主人から叱られた僕Cは、主人のことを信頼せず、とても恐れていました。彼にとって主人は「まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人」だったからです。クリスチャンであっても、ある人は、この僕Cのように神様のことを恐ろしい方と捉えている場合があります。そのような人は、僕Cが主人から預かった財産をただ地の中に隠しておいたように、神様が与えてくださった賜物さえ用いることをせず、能力も発揮できないままに「怠惰」な生き方をすることになります。イエスはタラントのたとえ話の中で、父なる神様を恐れず、信頼することの大切さも教えているのでしょう。

みな『タラント』を与えられている

タラントのたとえ話に出てくる3人の僕は神様に仕えるクリスチャンを指していると書きました。でも、まだキリスト教の信仰を持たない人にとっても、このたとえ話は大切なことを語っているように思われます。

がんばる人わたしたちにはそれぞれに与えられたさまざまな能力があり、得意なことがあります。一方で不得意なこと、苦手なこともあります。それは絵や歌、楽器演奏などの芸術、スポーツなどの才能といった特別なものに限らず、たとえばビジネスの場においては、リーダーとして力を発揮できる人もいれば、アシスタントとしてこそ力を発揮できる人もいますし、人に対面する営業が得意な人もいれば、営業は苦手でも事務処理能力の高い人もいます。また、計算が得意な人もいれば、計算は苦手でも文章を書くことが得意な人もいます。チームで協調性をもって働くことが得意な人、一人で取り組む仕事が向いている人など、それぞれに得手不得手があります。

自分が得意なこと、人よりも少し優れていること、それが自分に与えられた「タラント」、すなわち賜物です。もしかしたら自分でもまだ気づいていない賜物もあるかもしれません。3人の僕が預かった財産の額が異なるように、形も量も同じではないけれど、人はみなそれぞれに賜物を与えられています。だから、自分の賜物ってなんだろう?と少し立ち止まって考えてみてはいかがでしょうか?
決して自分とほかの人を比べる必要はありません。多彩な能力を持つ、いわゆるオールマイティな人にもきっと何かしらの不得意なことはあります。必ずしも易しいことではありませんが、自分に与えられている賜物を知り、それを精一杯に活かして、ほんの少しでも人のため、社会のために役に立つことができたら、理想的だとは思いませんか?

 

狭き門

狭き門次に、「狭き門」の由来についてもご紹介したいと思います。
「狭き門」ということばは一般的に、達成できる可能性が低い困難なこと、とくに競争相手が多くて合格が難しいことのたとえとして用いられ、受験や就職などの場面で最もよく使われていますよね。また、フランスの作家アンドレ・ジッドの「狭き門」という有名な小説を読んだことがあるという方もいらっしゃるでしょう。
この「狭き門」も、聖書にあるイエスの教えに由来すると言われています。(聖書における「狭い門」は英語では“narrow gate” ですが、上記の日常用語としての「狭き門」の意味に近い英語の一つは、しいて言えば、“competitive”でしょうか。)

イエスの「山上の説教」

山上の垂訓「マタイによる福音書」5~7章にあるイエスの「山上の説教」については、すでに「聖書が由来のことば」のその1、2でも触れ、「豚に真珠」や「砂上の楼閣」ということばがこの「山上の説教」に由来していることをご紹介しました。
「狭き門」も同じく「山上の説教」におけるイエスの教えの一つに由来しています。その箇所は次のとおりです。

狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。(マタイ7:13-14)

道の広い大きな門をはいっていこうとする人は多いが、それは滅びにいたる門である。それに対して、道の細い狭い門は見つけることさえ難しく、そこをはいっていく人は少ない。しかし、その門こそが命にいたる門なのだ、とイエスは語っています。

「滅びにいたる」、「命にいたる」というところが難しいですね。「滅び」にも「命」にも、キリスト教の教えの核心に触れる深い意味があります。それは、イエスを救い主と信じ、イエスの十字架によって罪を赦され、イエスの教えに従って歩む者は神の国(天国)に導かれ、永遠の命を得ることができる。しかし、イエスと無関係に生きる者はその恩恵にあずかることができない、という教えです。わかり易く言えば、「滅び」とは神様から見捨てられること、「命」とは神の国で永遠に生きる、永遠の命のこと、でしょうか。
そして、「狭い門からはいる」とは、「山上の説教」を含むイエスの教えに従って生きていくことを指していると考えられます。イエスはこの「命」にいたる門や道について、次のようにも語っています。

わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。(ヨハネ10:9)

わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。(ヨハネ14:6)

「狭き門」の由来とされるイエスの教えにも、すでにご紹介した「砂上の楼閣」などと同じように、わたしたちが日常生活において用いる「狭き門」とは全く異なる、キリスト教の信仰にかかわる深い意味があることがわかりますね。

狭い門と大きな門

「狭い門からはいれ」というイエスの教え。この教えの中で、イエスは「狭い門」、「細い道」と「大きな門」、「広い道」を対比しています。また、「砂上の楼閣」の由来とされる教えの中でも、イエスは「岩の上の家」と「砂の上の家」を対比しています。用いているたとえは異なりますが、イエスが弟子たちに伝えようとしたことは同じことのように思われます。神様の言葉である聖書の教え、イエスの教えに耳を傾けるだけでなく、その教えに従って生きることはたやすいことではない、でもそれが大切なのだ、ということです。

分かれ道「狭い門」と「大きな門」。それはわたしたちが人生の中でどちらの道を選ぶかという、その選択肢を表しているようにも思われませんか?実際にわたしたちは日々、さまざまな選択をしながら生きています。困難な道(狭い門)と楽な道(大きな門)のどちらかを選ばなければならないとき、わたしたちはどちらの道を選ぶでしょうか?きっと多くの人は楽な道を選びたくなるでしょう。でも、困難な道を選べば、一生懸命努力をしてその困難を克服し、何かを成し遂げたときにとても大きな自信が得られるかもしれません。あるいは、その経験が自分の成長につながることもあるでしょう。
どちらの道を選び、歩んでいくのか、キリスト教の信仰においても、日々の生活においても、わたしたちはみな自らその選択をしなければなりません。

いかがでしたか?聖書に由来するどのことばもキリスト教におけるイエスの教えに結びついていて、とても難しい、よくわからないというのが正直な感想かもしれません。しかし、もしほんの少しでも興味がわいたなら、世界のベストセラーと言われ、多くの人たちに影響を与えてきた聖書を、一度手にしてみてはいかがでしょうか。


★記事中のいくつかのイラストは、素材サイト「Christian Cliparts」さんから使わせていただきました

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