
こんにちは、ノイです。
今回は地理的なお話から始めたいと思います。
パレスチナから地中海世界全体の地図をもう一度頭に思い浮かべながら、聖霊によって導かれた使徒たちの働きを追ってみましょう。
日本海を見て育つ。 幼い頃、近所の教会のクリスマス会に参加し、キャロルソングが大好きになる。 教会に通うこと彼此20年(でも聖書はいつも新しい)。 好きなことは味覚の旅とイギリスの推理小説を読むこと。
使徒たちが生きていた時代、ローマ帝国が現在のギリシャやトルコを含む地中海沿岸の地域をぐるりと囲む形で勢力を伸ばす一方、それに敵対するパルティア帝国がイランに当たる地域全体を支配し、エルサレムはそれら帝国間の中心近くに位置していました。
キリスト教が誕生して数世紀の間は、ローマ帝国の統治下で社会も安定し、比較的安全に移動できたことが好条件となり、迫害を受けながらも地中海沿岸の町々に福音が急速に伝わっていきました。
エルサレムから始まったキリスト教は、シリア、小アジア、アカイア(ギリシャ)、そしてローマに達し、2世紀にはスペインやガリア、北アフリカなど遠く離れた地域にまで伝播していくのです。
その世界宣教の中心地として、シリア州の州都として栄えたアンテオケという国際都市があります。
現在はトルコの「アンタキヤ」という名の町になっています。
ここで初めて異邦人主体の教会が誕生しました。
『使徒行伝』の著者ルカもアンテオケの出身ですね。
ルカによる次の記述からは、当時のアンテオケの社会において「イエスの群れ」が無視できないほどの存在になっていたことが伺えます。
このアンテオケで初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった。
使徒行伝11章26節
パウロによる伝道旅行の出発点がいつもアンテオケであったことからも、ここが宣教の重要な拠点であったことがわかります。
また、『使徒行伝』11章には、ユダヤに大飢饉が起こった際に、アンテオケ教会がエルサレム教会へ支援物資を送ったことも記録されています。
神の栄光を現したアンテオケ教会の誕生と成長は、他の地域にいる弟子たちをどれほど励ましたことでしょう。
【アンテオケ】
当時のアンテオケは、ローマ、アレキサンドリアに次ぐローマ帝国第三の都市であり、貿易の要所として栄えました。アンタキヤ東部郊外に現存する「聖ペテロ教会」は、迫害から逃れた初期キリスト教徒が建てた天然の洞窟を利用した教会で、紀元37年頃、アンテオケを訪れたペテロがここで最初の説教を行ったと言われています。
イスラム教国家としてのイメージが強いトルコですが、15世紀にオスマン帝国がキリスト教を排除するまではキリスト教の国でした。黙示録に登場する7つの教会は全て現在のトルコのアナトリア半島に存在していたのです。
エルサレムに次ぐ教会となったアンテオケ教会ですが、そのはじまりは好ましいものではありませんでした。
サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。
その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起り、使徒以外の者はことごとく、ユダヤとサマリヤとの地方に散らされて行った。
使徒行伝8章1~2節
ユダヤ人によってステパノという執事が殺害された事件を皮切りに教会への迫害が本格化し、エルサレムから各地に離散したキリスト教徒の一部がアンテオケに流れ込んだのです。
さて、ステパノのことで起った迫害のために散らされた人々は、ピニケ、クプロ、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者には、だれにも御言を語っていなかった。
ところが、その中に数人のクプロ人とクレネ人がいて、アンテオケに行ってからギリシヤ人にも呼びかけ、主イエスを宣べ伝えていた。
そして、主のみ手が彼らと共にあったため、信じて主に帰依するものの数が多かった。
使徒行伝11章19~20節
こうして最初の殉教と大迫害による離散は、エルサレムというユダヤ人社会の垣根を越えた異邦人伝道のきっかけとなったのです。
このうわさがエルサレムにある教会に伝わってきたので、教会はバルナバをアンテオケにつかわした。彼は、そこに着いて、神のめぐみを見てよろこび、主に対する信仰を揺るがない心で持ちつづけるようにと、みんなの者を励ました。
使徒行伝11章22~23節
エルサレムにいた使徒たちは、自分たちが思ってもみなかった場所でリバイバル※が起こっていると聞き、その真偽を確かめるべくバルナバを遣わしました。
※キリスト教において、信仰を持つ人々が急速に増えていく「信仰復興」のこと。
遣わされたバルナバは、そこで「神の恵みを見て」喜びます。
そこには人知を超えた聖霊の働きそのものがあったのです。
その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起り、使徒以外の者はことごとく、ユダヤとサマリヤとの地方に散らされて行った。・・(中略)・・
さて、散らされて行った人たちは、御言を宣べ伝えながら、めぐり歩いた。
使徒行伝8章1、4節
使徒以外のキリスト教徒たちは、アンテオケより近いサマリヤにも逃れて来ていました。
新約聖書の時代、話すことも憚(はばか)られるほどユダヤ人から軽蔑されていたのがサマリヤ人でしたが、人の心にある見えない垣根をも超越して働く神の力によって、イエスの言葉が成就していったのです。
ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう。
使徒行伝1章8節
【サマリヤ】
サマリヤは、紀元前722年にアッシリアによって滅亡した北イスラエル王国の首都でした。
もともと北イスラエルに住んでいたユダヤ人は、アッシリアによってサマリヤに強制的に移住させられた他民族と共存するうちに混血民族となり、ユダヤ人からは異邦人扱いされるようになります。
サマリヤ人とユダヤ人の間に生まれた溝は、長い歴史のなかで深まっていきました。
しかし、かつてイエスが一人の女性を伝道するために訪れたサマリヤで、今度は使徒たちが福音を宣べ伝え、多くの魂が救われることとなったのです。
エルサレム教会で最初に任命された7人の執事のうちのひとりにピリポという人がいます。(イエスによって使徒に命じられた弟子のピリポとは別の人物です。)
ピリポはステパノの殉教の後にサマリヤで伝道し、カイサリアにまで福音を届けました。
ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べはじめた。
群衆はピリポの話を聞き、その行っていたしるしを見て、こぞって彼の語ることに耳を傾けた。
汚れた霊につかれた多くの人々からは、その霊が大声でわめきながら出て行くし、また、多くの中風をわずらっている者や、足のきかない者がいやされたからである。
それで、この町では人々が、大変なよろこびかたであった。
使徒行伝8章5~8節
聖書の中でも印象に残る場面のひとつである「ピリポとエチオピアの宦官の出会い」は、神によって導かれたとてもドラマチックな出来事です。
ピリポは、今まさにリバイバルが起きているサマリヤの地を離れ、ガザに下る荒野へ向かうよう主の使いに命じられます。そして、イザヤ書のイエスに関する預言の箇所を読んでいるエチオピアの宦官と出会ったのです。
宦官は王に仕えるために去勢をしていました。
旧約の律法では去勢したものは汚(けが)れた者として規定されていたのですが、イエスの救いの福音は、旧約で汚れているとされている人にまで及んだのです。
神に従ってやって来たピリポから福音を解き明かされた宦官は、イエスを信じ、その場で洗礼を授かることができました。
この場面には、「一人の人」に注がれる神の愛と伝道の喜びで満ちています。
ぜひ、『使徒行伝』でご覧になってみてください。
【エチオピア】
聖書に登場する「クシュ」という古代名の国を指しています。現在のエチオピアとは異なり、当時はエジプト南部からスーダンにまたがる大国で、ソロモンの時代から交流があったと言われています。
ピリポと出会った宦官は、遠く離れたエルサレムに礼拝のために訪れるほど熱心にイスラエルの神を信仰していました。この宦官の影響によるものか定かではありませんが、古代からエチオピアには独自の教会が建てられており、現在もエチオピア正教会として存続しています。
しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。
それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。
あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。
ペテロの第一の手紙2章9~10節
これは紀元60年代にペテロが小アジアにいるクリスチャンに宛てて書いた手紙です。
手紙の冒頭には「ポント、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビテニアに散って寄留している選ばれた人たち」と書かれています。
このことから、30年余りで福音がユダヤからアジア圏の広範囲に広がっていたことがわかります。
当時はネロなどのローマ皇帝によるキリスト教に対する大迫害の最中で、ユダヤ人も異邦人も関係なく、イエスを信じる人々は非常に苦しい状況にありました。
そこでペテロは、福音を受け入れた異邦人が「選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民」となっていることを手紙に明記し、兄弟たちに確固としたアイデンティティを思い起こさせて励ましたのです。
『使徒行伝』の10章には、異邦人伝道の起点となったヨッパでの出来事が記録されています。
「わたしがヨッパの町で祈っていると、夢心地になって幻を見た。大きな布のような入れ物が、四すみをつるされて、天から降りてきて、わたしのところにとどいた。注意して見つめていると、地上の四つ足、野の獣、這うもの、空の鳥などが、はいっていた。それから声がして、『ペテロよ、立って、それらをほふって食べなさい』と、わたしに言うのが聞えた。わたしは言った、『主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないものや汚れたものを口に入れたことが一度もございません』。すると、二度目に天から声がかかってきた、『神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない』。こんなことが三度もあってから、全部のものがまた天に引き上げられてしまった。」
使徒行伝11章5~10節
これはペテロがヨッパの町で見た幻の様子です。
布に入った動物は、旧約聖書で「汚れたもの」として定められ、食べることを固く禁じられたものでした。
ペテロはそれらの「汚れたもの」を口にできません、と言って神の命令を拒むのですが、神はその汚れたものを「わたしがきよめたもの」だと宣言し、ペテロに食べるよう三度命じたのです。
この幻が何を示しているのか理解する間もなく、目覚めたばかりのペテロを訪ねて来た人物がいました。
その人物こそ、この幻で言うところの「汚れたもの」、「神を知らない異邦人」だったのです。
彼はコルネリオというイタリア人の百人隊長でした。
コルネリオが信仰を持つに至った経緯は記されていませんが、敬虔な信徒であり、家族とともに民に多くの施しをしていた人物だったと『使徒行伝』に書かれています。
「ちょうどその時、カイザリヤからつかわされてきた三人の人が、わたしたちの泊まっていた家に着いた。御霊がわたしに、ためらわずに彼らと共に行けと言ったので、ここにいる六人の兄弟たちも、わたしと一緒に出かけて行き、一同がその人の家にはいった。
すると彼はわたしたちに、御使が彼の家に現れて、『ヨッパに人をやって、ペテロと呼ばれるシモンを招きなさい。この人は、あなたとあなたの全家族とが救われる言葉を語って下さるであろう』と告げた次第を、話してくれた。
そこでわたしが語り出したところ、聖霊が、ちょうど最初わたしたちの上にくだったと同じように、彼らの上にくだった。その時わたしは、主が『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは聖霊によってバプテスマを受けるであろう』と仰せになった言葉を思い出した。
このように、わたしたちが主イエス・キリストを信じた時に下さったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったとすれば、わたしのような者が、どうして神を妨げることができようか」。
人々はこれを聞いて黙ってしまった。
それから神をさんびして、「それでは神は、異邦人にも命にいたる悔改めをお与えになったのだ」と言った。
使徒行伝11章11~18節
何千年もの間、ユダヤ人にとって、異邦人は創造主なる神、そして神の教えと何の関わりもない存在であり、自分たちとも交わり得ない存在でした。
しかし、ここに至って、ユダヤ人と同じように異邦人をもご自分の羊として招かれる神の御旨を、使徒たちは悟ったのです。
「このように、わたしたちが主イエス・キリストを信じた時に下さったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったとすれば、わたしのような者が、どうして神を妨げることができようか」というペテロの告白は、いろいろな理由から人を分け隔てしてしまうときに思い出したい伝道者の心の原点かもしれません。
そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、ほんとうによくわかってきました。」
使徒行伝10章34~35節
【ヤッファ(ヨッパ)】
ヤッファは古代から非常に栄えた港町で、エルサレムの神殿建築に使われたレバノン杉もここから荷揚げされました。預言者ヨナが神の命令を拒み、タルシシュへ向かった場所としても登場します。
ヤッファを拠点にペテロが伝道旅行を行ったことに由来し、19世紀にフランシスコ会によって聖ペテロ教会が建設されました。現在、この町はテルアビブの一部となっています。
今回は、場所だけでなく、民族を越えて広がっていった福音伝道について見ていきました。
次回は、使徒パウロによる世界宣教に注目し、『使徒行伝』を紐解いていきたいと思います。
【参考文献】『地球の歩き方E05 イスラエル』ダイヤモンド社

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