第5回 『使徒行伝』―世界宣教のはじまり―

       
  • 2026/4/9
  • 最終更新日:2026/4/9
パウロが伝道旅行をした町々
パウロが伝道旅行をした町々
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こんにちは、ノイです。
これまで、福音が、聖霊の働きによってユダヤという地理的な面だけでなく、民族や人種の違いを乗り越え、人々の心にあった垣根をも突破して広がっていく過程を追ってきました。
第5回は、著者ルカが同行した使徒パウロの宣教旅行を中心に、初期キリスト教における宣教の歴史を紐解いてみたいと思います。
ぜひ、今回も地図で使徒たちの動きを追いながら読んでみてください。


ノイ
Writer Profileノイ

日本海を見て育つ。 幼い頃、近所の教会のクリスマス会に参加し、キャロルソングが大好きになる。 教会に通うこと彼此20年(でも聖書はいつも新しい)。 好きなことは味覚の旅とイギリスの推理小説を読むこと。

 

いよいよヨーロッパ大陸へ

ユダヤから始まった福音宣教は、シリア、小アジアまで達し、各地で教会が建てられていきました。そして、いよいよヨーロッパ宣教の先駆けとなるマケドニヤで、パウロたちによる伝道の働きが始まります。
小アジアからエーゲ海を渡ってバルカン半島に福音が運ばれたことは、キリスト教がヨーロッパ世界に入っていく大きな転換点でした。
長い時を経て、今度はヨーロッパを中心に、福音が世界中へ届けられることになるのです。
『使徒行伝』は、人の思いをはるかに超えた神のご計画が、聖霊によって示され成されていく、壮大な宣教の歴史を記録した書物でもあります。

迫害の中で拡大していった宣教

ユダヤ人宗教指導者たちによる迫害は、イエスの時代から絶えずありました。
それは使徒たちの時代でも同様であり、『使徒行伝』7章では、ステパノの殉教について記されました。12章では、使徒たちの中で最初の殉教者となったヤコブについて触れられています。そして、それは「国家権力」による迫害でした。

そのころ、ヘロデ王は教会のある者たちに圧迫の手をのばし、ヨハネの兄弟ヤコブをつるぎで切り殺した。
使徒行伝12章1~2節

 

しかし、ステパノの殉教によってユダヤ人クリスチャンが各地に散らされ、エルサレム以外の場所でも福音が伝わっていったように、激しさを増す迫害の中でも、聖霊による宣教の働きはますます広がっていくのです。 

 

神が選んだ器パウロ

「聖パウロの回心」カラヴァッジョ
「聖パウロの回心」
カラヴァッジョ

ステパノが殉教したとき、その場に居合わせたのが使徒パウロでした。
二人の人生が、その時、一瞬交差したのです。 
当時、パリサイ派の厳格な教育を受けた熱心なユダヤ教徒であったパウロに、イエスに対する信仰はありませんでした。クリスチャンをユダヤ教の異端者と見なしていたパウロは、教会の迫害者として先頭に立って活動していました。
「目から鱗が落ちる」という諺のもとになった、パウロ回心の出来事について、皆さんもご存知かもしれません。
キリスト者を迫害していたパウロは、その働きの最中にイエス・キリストと出会い、イエスが主であると信じて生まれ変わり、世界宣教を担う大きな存在となっていったのです。 

しかし、主は仰せになった、「さあ、行きなさい。あの人※は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。」
使徒行伝9章15節

※ここで「あの人」とは、パウロを指す。

【使徒パウロ】 
ヘブライ語で「サウロ」。ギリシャ語(ローマ風)で「パウロ」という。A.D5~10年頃、ローマ帝国キリキア属州の州都タルソで敬虔なユダヤ教徒の家に生まれる。33年頃、ダマスコへの途上でイエス・キリストに出会って回心。ローマ市民権を持つ特権階級に属し、当時の世界共通語であったギリシャ語を話すことができたパウロは、帝国内の各地を巡る中で、その背景や教養を存分に用いながら、ユダヤ人だけでなくさまざまな民族に福音伝道を行った。64年頃にローマにて殉教。

パウロ書簡

パウロの宣教旅行は、A.D46~57年頃の間に3度行われました。
その後、57~60年頃に最後となるローマまでの旅で『使徒行伝』は締めくくられます。 
パウロは、その宣教によって各地に建てられていった教会の信徒たちを励まし、彼らの信仰を育てるために、多くの書簡を書き残しました。 
新約聖書の大部分を占めるこれらの書簡は、信仰の土台となるイエス・キリストの救いについて旧約聖書を紐解きながら説明されており、今も信仰者や教会の成長に欠かせない教えの書となっています。 
これらの手紙が書かれた背景を『使徒行伝』から知ることで、パウロ書簡の、ひとつひとつの言葉の意味をより一層理解することができるでしょう。

 

第一次宣教旅行

46~48年頃、バルナバとパウロによる最初の宣教旅行が行われました。
この宣教旅行については、『使徒行伝』13章1節~14章28節に記載されています。
二人が送り出されたのは、異邦人が本格的に加わった最初の教会であるシリアのアンテオケ教会でした。

一同が主に礼拝をささげ、断食をしていると、聖霊が「さあ、バルナバとサウロとを、わたしのために聖別して、彼らに授けておいた仕事に当らせなさい」と告げた。
そこで一同は、断食と祈とをして、手をふたりの上においた後、出発させた。
ふたりは聖霊に送り出されて、セルキヤにくだり、そこから舟でクプロに渡った。
使徒行伝13章2~5節

※太字は筆者による

この箇所から、宣教の働きの先頭に立って導かれているのは聖霊である、ということがよくわかります。ルカは、実際に動いているのは使徒だけれども、その働きを進めているのは主の霊であるということを見、書き留めているのです。
ここで書かれている「クプロ」とは、キプロス島のことです。アンテオケ教会の指導者であったバルナバは、このキプロス島の出身でした。
バルナバとパウロはキプロス島を巡回した後、小アジア南部(ガラテヤ地方)に渡ります。そして、ピシデヤのアンテオケ(シリアのアンテオケとは別)やイコニオム、テルベへと進みながら伝道を続け、諸教会を建て上げていったのです。

主はわたしたちに、こう命じておられる、『わたしは、あなたを立てて異邦人の光とした。あなたが地の果までも救をもたらすためである』」。
異邦人たちはこれを聞いてよろこび、主の御言をほめたたえてやまなかった。
そして、永遠の命にあずかるように定められていた者は、みな信じた。
こうして、主の御言はこの地方全体にひろまって行った。
ところが、ユダヤ人たちは、信心深い貴婦人たちや町の有力者たちを煽動して、パウロとバルナバを迫害させ、ふたりをその地方から追い出させた。ふたりは、彼らに向けて足のちりを払い落して、イコニオムへ行った。
弟子たちは、ますます喜びと聖霊とに満たされていた。
使徒行伝13章47~52節

※太字は筆者による

ユダヤ人宗教指導者たちや彼らに扇動された熱心なユダヤ人たちによって、それらの町を追い出されながらも、二人は同じルートを通って引き返しました。そして、生まれたばかりの教会を再び訪問して励ました後、送り出されたシリアのアンテオケに戻ると、宣教の実りを他の弟子たちと分かち合いました。

その町で福音を伝えて、大ぜいの人を弟子とした後、ルステラ、イコニオム、アンテオケの町々に帰って行き、弟子たちを力づけ、信仰を持ちつづけるようにと奨励し、「わたしたちが神の国にはいるのには、多くの苦難を経なければならない」と語った。また教会ごとに彼らのために長老たちを任命し、断食をして祈り、彼らをその信じている主にゆだねた。
使徒行伝14章21~23節

※太字は筆者による

ここからは、福音を伝えて終わりではなく、信じた人々がその後も信仰に留まり、成長していけるよう励ますことも、伝道と同じくらい重要であることがわかります。
パウロ書簡の中で、最初に書かれたと考えられている『ガラテヤ人への手紙』は、この第一次宣教旅行で誕生した諸教会へ宛てたものです。バルナバとパウロがガラテヤ地方の人々に対して抱いていた切実な思いが、手紙に込められているのです。

 

第二次宣教旅行

冒頭で触れたように、世界宣教の転換点となるマケドニヤでの開拓伝道が始まったのが、50~52年頃に行われたパウロとシラスによる第二次宣教旅行でした。
この宣教旅行については、『使徒行伝』15章22~18章23節に記録されています。  
第二次宣教旅行は、弟子テモテをはじめとする、主があらかじめ備えてくださった人々との出会いの旅でもありました。激しさを増した迫害の中でも、彼らの存在によって使徒たちは力づけられ、働きを継続していくことができたのです。 

【テモテ】 
「私が愛する、主にあって忠実な子」(第一コリント人への手紙4章17節)とパウロがその書簡に記している愛弟子。父親がギリシャ人、母親がユダヤ人であり、祖母や母の影響で聖書(旧約)に幼い頃から親しんでいた。パウロが第二次宣教旅行でガラテア地方のルステラを訪ねたときに出会い、直接弟子としての訓練を受け、パウロの代理や使者として諸教会へ派遣された。エペソ教会でも牧会し、最後は殉教したと伝えられている。

それぞれの宣教地へ

「リストラで足なえを癒やす聖パウロ」カレル・デュジャルディン
「リストラで足なえを癒やす聖パウロ」
カレル・デュジャルディン

第一次宣教旅行でパウロと同行したバルナバについても、少し触れておきましょう。
第二次宣教旅行は、パウロとシラスがペアになって行われました。
同時期に、バルナバはマルコと共にキプロス島に渡っています。
二人が分かれた原因は、第一次宣教旅行中に離脱してしまったマルコ(別名ヨハネ。マルコによる福音書の著者)を、再び連れて行くかどうかでパウロとバルナバの意見が食い違ったことでした。
議論の末、二手に分かれてしまったパウロとバルナバですが、その後も、マルコを含めて、それぞれが互いを必要とし、助け合っていた様子がパウロ書簡からも窺い知ることができます。結果的に、別々に他の地域に遣わされたことによって、宣教の働きも拡大したのです。

神の計画によるマケドニヤ宣教

第二次宣教旅行まで、福音伝道はシリアのアンテオケ教会を拠点に、小アジア(トルコ領内)を中心に行われていました。
第二次宣教旅行でも、第一次宣教旅行で福音を伝えた小アジアの諸都市を再び訪れたパウロ一行でしたが、そこで行き詰まってしまいます。

それから彼らは、アジヤで御言を語ることを聖霊に禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤ地方をとおって行った。そして、ムシヤのあたりにきてから、ビテニヤに進んで行こうとしたところ、イエスの御霊がこれを許さなかった。
それで、ムシヤを通過して、トロアスに下って行った。
使徒行伝16章6~8節

※太字は筆者による

ビテニヤとは、小アジアの北側にある黒海に面した地域(現在のトルコ北西部)を指します。パウロたちはこの地域へ北上することができなかったので、ムシヤという内陸部から海岸へ向かって下り、小アジア北西端の港町トロアスに行き着きます。このエーゲ海に面したトロアスの対岸はギリシャ、つまりマケドニヤでした。

ここで夜、パウロは一つの幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が立って、「マケドニヤに渡ってきて、わたしたちを助けて下さい」と、彼に懇願するのであった。
パウロがこの幻を見た時、これは彼らに福音を伝えるために、神がわたしたちをお招きになったのだと確信して、わたしたちは、ただちにマケドニヤに渡って行くことにした。そこで、わたしたちはトロアスから船出して、サモトラケに直航し、翌日ネアポリスに着いた。
使徒行伝16章9~11節

※太字は筆者による

アジアからヨーロッパへ渡る玄関口のような場所であったトロアスで、パウロに幻を通して行くべき場所が示されたのです。
主のなさることは本当に不思議ですね!
今回は、パウロの第一次・第二次宣教旅行の途中までを紐解き、キプロス島や小アジアを中心に宣教が広がっていく様子を追いました。
次回(最終回)は、ヨーロッパ大陸へと飛び出した福音が各地でどのように受け入れられていったのかを見、第三次宣教旅行とローマへの旅で、迫害の中でも広がっていく福音伝道の働きを追いたいと思います。

【参考文献】デイビッド・P・バレット著『コンサイス 聖書歴史地図』いのちのことば社


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