キリスト教系学校を卒業しても、なぜ教会につながる人は少ないのか
――キリスト教教育と信仰についての一考察

       
  • 2026/11/5
  • 最終更新日:2026/11/5

日本にはキリスト教を建学の精神とする幼稚園、小学校、中学校、高校、大学が数多くありますが、その割に卒業生が教会やキリスト教信仰につながることは少ないのではないかというのが、キリスト教界に関わる人たちの思いだと思います。

キリスト教学校教育同盟が公表している直近の統計では、加盟校で学ぶ学生・生徒・児童などは33万人を超えています(2025年7月1日現在)。
これは日本のすべてのキリスト教教育機関を網羅した数字ではありませんが、キリスト教系学校の教育を通して非常に多くの人が聖書や礼拝、祈り、キリスト教の価値観に触れていることは確かに分かります。

学校の礼拝で、聖書のことばに耳を傾ける生徒たち
学校の礼拝で、聖書のことばに耳を傾ける生徒たち

一方、卒業生への追跡調査の資料は無く断定は出来ないものの、キリスト教系学校を卒業した方々が、そのままキリスト教に大勢つながっている、という印象はありません。

それはなぜなのか。そのように感じている状況をどのように理解したらよいでしょうか。

キリスト教教育と教会の関係性について、以下の三つのことを区別して考察してみたいと思います
一つは、キリスト教について学ぶこと。
二つ目は、キリスト教信仰を持つこと。
そして三つ目は、地域の教会につながり、その信仰共同体の中で生きていくことです。
この三つは互いに関係していますが、同じではありません。


Kenji
Writer ProfileKenji

クリスチャン家庭に生まれ育つ。趣味は映画、ハイキング、ボードゲームなど。 神学校を卒業後、牧師として働いてきました。現在はフリーランスのWebライターとして働きつつ、神様の愛を伝えるために様々な活動をしています。イエス様といっしょに生きる素晴らしさをお分かちできたら、うれしいです!

 

①キリスト教系学校と教会では役割が異なる

第一にキリスト教系学校と教会とでは、その役割が異なります。

キリスト教系学校では、礼拝が行われ、聖書やキリスト教について学ぶ機会があります。そして、「隣人を愛すること」「一人ひとりの人格や個性を尊重すること」「自らに与えられた力を他者や社会のために用いること」など、キリスト教に根ざした価値観を教育理念として学ぶことが多いでしょう。

しかし、キリスト教系学校は、そこに入学したすべての子どもをクリスチャンにするためだけに存在しているわけではありません。生徒や保護者がキリスト教系学校を選ぶ理由はさまざまであり、入学すること自体がキリスト教信仰への同意を意味するわけではないからです。

けれども、学校でキリスト教の価値観に触れたことによって、
人を大切にすることを学んだ。
聖書の言葉を一つ覚えた。
自分が苦しいとき、祈ることのできる神様がいるかもしれないと思った。
そうしたものもまた、キリスト教教育が生徒の心と人生に残す大切なものだと思います。

 

②「知ること」と「信じること」は同じではない

第二に、キリスト教について知り、良い印象を持つことと、キリスト教信仰を持つこととは、同じではありません。

たとえば、「隣人を愛しなさい」というイエス・キリストの言葉に共感するかもしれません。
讃美歌を美しいと思うかもしれません。
卒業後に、クリスマス礼拝を懐かしく思い出すこともあるでしょう。
「キリスト教系学校で学んで、良かった」と思うこともあるでしょう。

聖書を「知ること」と、福音を「信じること」
聖書を「知ること」と、福音を「信じること」

しかし、キリスト教についての知識を持ち、好意的に受け止めるということと、イエス・キリストを自分の救い主として信頼し、主として従って生きることは違います。

ここで、「そもそもキリスト教が語る『福音』とは何なのか?」ということを、考える必要があります。

キリスト教は、単に「良い人になりましょう」と教える宗教ではありません。
もちろん、隣人を愛することも、弱い立場の人を大切にすることも重要です。
しかし、聖書の福音の中心にあるのは、「良い人間になれば神様に受け入れてもらえる」という教えではありません。

むしろ聖書は、人間の問題をもっと深いところに見ています。
私たちには、他人より自分を優先したり、分かっていても人を傷つけたりする自己中心的なところがあります。
また、自分自身を健全に愛することさえ難しいことがあります。
人からされたことをどうしても赦せないこともあります。

聖書は、こうした傾向の背後にある、神様から離れ、自分を中心に生きようとする人間の根本的なあり方を「罪」という言葉で語っています。
聖書の語る罪とは、犯罪や目に見える悪い行いだけを指すものではないのです。

そしてキリスト教が語る福音とは、そのような私たちが努力して立派な人間になったら、神様に認められる、と励ます「良い助言」ではありません。
どうしようもない罪の問題を抱えた私たちに、神様が救い主イエス・キリストを遣わし、その十字架と復活を通して、赦しと和解の道を開いてくださったという「良い知らせ」なのです。

新約聖書のエペソ人への手紙は、人が救われるのは自分の行いによるのではなく、神様の恵みによると語っています。
そして、その恵みによって救われた者が、良い行いをしていくのだと語っています。

つまり、キリスト教信仰においては、
「良く生きたから救われる」のではなく、
「神に愛され、赦されたから、その恵みに応えて良い行いをしていく」
という順序があります。

この福音を、キリスト教系学校の礼拝や聖書の授業の中で、教師が知識として説明したり、生徒が頭の知識として学んだりすることはできます。
しかし、福音を「これは私自身に向けられた喜ばしい救いの知らせだ」と心の深い部分で受け入れることは、礼拝出席レポートやテストの点数で測れるような単なる知識の習得とは違います。

牧師として多くの方と関わってきた経験から言えるのは、人が信仰を持つプロセスというのは、実に不思議です。
同じ聖書の言葉を聞いても、そのとき深く響く人もいれば、何年も後になって、人生の試練などを通して初めて福音に耳を傾ける人もいます。
信仰に至る道筋や時は、一人ひとり異なるのです。
ある生徒は在学中に、別の生徒はキリスト教系学校を卒業してから何年、何十年経ってから信仰を持つに至るかもしれません。

そして、聖書の教えによると、人が福音を信じる背後には、聖霊なる神様の働きがあります。
信仰は、人間の教育技術だけによって作り出せるものではなく、神様から与えられる賜物なのです。

だから私は、キリスト教系学校の役割を尊く、大切だと考える一方で、どれほど丁寧なキリスト教教育を行っても、それだけで必ず信仰が生まれるとは限らない、と思っています。
キリスト教について学び、その価値観に共感することと、「私はこの信仰を自分自身のものとして受け取る」ということとは、必ずしも同じではないこと、そして、そこには単一の理由ではなく、さまざまな背景があることを考えさせられます。

 

③「信仰を持つこと」と「教会につながること」は同じではない

第三に、キリスト教信仰を持つことと、地域教会につながることも、必ずしも同じではありません。

教会の前で立ち止まり、一歩を迷う卒業生
知り合いのいない教会を前に、一歩を迷う卒業生

日曜日の仕事や家庭の事情、宗教に対する家族の警戒感、また、知り合いのいない教会へ一人で入る不安など、さまざまな現実的な事情が、地域教会につながることを難しくする場合があります。

ですから、「地域教会につながっていない」というだけで、「あの人はキリスト教を拒絶した」と決めつけることはできません。

ただ同時に、キリスト教信仰において、教会は単なる付属品ではありません。
キリスト教信仰は、個人の内面だけで完結するものではなく、他者と共に生きることへと私たちを招くものでもあります。
そしてまさに教会とは、共に礼拝し、聖書の言葉を聞き、祈り、互いに支え合う、信仰者の共同体だからです。

 

④キリスト教系学校だからこそ、できること

ただ、「信仰は教育によって作り出せるものではない」と言うだけで、この問題を終わらせてしまうことはできないと思います。

キリスト教系学校の生活の中で「隣人愛」「奉仕」「平和」「一人ひとりの尊厳」など、キリスト教教育の中で大切にされてきた価値がよく伝わることは大切でしょう。
しかし、同時に、「なぜキリスト教はそのように教えるのか?」という根の部分も十分に伝えることが重要だと思います。

イエス・キリストとは誰なのか。
十字架と復活にはどのような意味があるのか。
神様の恵みとは何なのか。

そうしたキリスト教固有の重要な内容よりも、「人に優しくし、社会のために良いことをする」という側面だけが生徒の印象に強く残るとすれば、そこには考えてみる余地があるかもしれません。

もちろん、これはキリスト教系学校で生徒に信仰を持つよう迫るべきだ、という意味ではありません。
信教の自由を尊重することは当然ですし、教育の場で宗教的な圧力をかけるべきでもありません。
むしろ大切なのは、押しつけずに、しかし曖昧にもせず、「キリスト教は実際には何を信じているのか」を丁寧に示すことではないでしょうか?

もう一つは、生徒や学生が疑問を自由に口にできるかどうかです。

「神様なんて本当にいるのですか?」
「どうしてイエス・キリストだけに救いがあるのですか?」
「聖書には、腑に落ちないところがあります」
「祈っても何も起きませんでした」

そのような問いを自由に口にできる雰囲気があり、さらに、キリスト教はその問いにどのように答えるのかを教師やチャプレンが誠実に示し、ともに考えることのできる場があることも大切だと思います。

信仰とは、疑問を持たないことではありません。
むしろ真剣に考えるからこそ生まれる問いがあります。
その問いに誰かが付き合ってくれたという経験そのものが、後になって大きな意味を持つのだと思います。

さらに、学校と地域のキリスト教会との関係も考える必要があります。
学校によっては礼拝堂があり、宗教主任やチャプレンなどがいて、日常的にキリスト教に触れられる環境があります。
しかし卒業後は、在学中のように日常的にキリスト教に触れる環境から離れる人も少なくないでしょう。
そのとき、「これからも聖書を学びたい」「一度教会に行ってみたい」と希望する生徒や卒業生を地域教会に紹介したり、卒業後も相談したりできる窓口があれば、学校と地域教会の良い橋渡しとなるでしょう。

キリスト教系学校には学校としての使命があり、教会の代わりになる事はできません。
けれども、キリスト教系学校が教育を通して生徒にキリスト教を紹介するのなら、
・それが単なる道徳的価値観で終わらず、その源にある福音についても理解を深めることのできるものになっているか
・その後の人生の中で必要なときに信仰について尋ねたり、地域教会につながったりする道を学校が提供できるかどうか
これは、キリスト教系学校が折に触れて考え続けてよい問いではないかと思います。

 

⑤教会の側も問われている

ところで、「キリスト教系学校の卒業生が教会に来ない」という問いを考えているうちに、私は、「教会の側も問われているのではないか?」と思うようになりました。

たとえば、キリスト教系学校を卒業した人が、ある日、教会を訪ねてくれたとします。
その人は、聖書や讃美歌になじみがあるかもしれませんが、「在学中は礼拝に出席したけど、本当のところキリスト教が何なのか、よく分からない」という人かもしれません。
その人からの質問に対して、真摯に向き合い、もう一度丁寧に答えることは大切だと思います。

その人がキリスト教への反発を感じている場合もあるでしょう。

「結局、神なんて、人間の妄想の産物ではないですか?」
「イエス・キリストだけに救いがあると言うのは、狭量ではないですか?」
「キリスト教の影響を強く受けてきた国々が、なぜ戦争をしてきたのですか?」
「復活なんて、荒唐無稽なことを、本当に信じているのですか?」

キリスト教についてある程度知っているからこそ、こちらの前提を突く鋭い質問や、とっさには答えにくい疑問を投げかけてくることもあるでしょう。
そのとき、疑問を持つこと自体を悪いこととせず、分からないことは分からないと認めながら、必要ならこちらも学び直し、誠実に答えようとする姿勢が問われているのではないでしょうか?

開いた聖書を囲み、牧師と語り合う若者
疑問に誠実に向き合ってくれる人との出会い

私自身はクリスチャンの家庭に生まれ育ちましたが、20歳の頃、それまでの教会生活の中で傷ついた経験もあり、別の教会へ移った経験があります。
そこで、自分の抱く問いに誠実に答えてくれる牧師や、ありのままの自分を受け入れてくれる教会員と出会ったことが、その教会につながっていく大きなきっかけとなりました。
振り返れば、私自身にとっても、教会につながるうえで「何を信じるか」だけでなく、「そこで誰と出会うか」は、とても大きな意味を持っていたと思います。

「一緒に教会へ行ってみない?」と声をかけてくれる同級生、先輩、教師が必要なこともあります。
疑問を率直に話せる牧師や、気軽に相談できる教会員が必要なこともあります。
人との出会いが、キリスト教を「学校で学んだもの」から「自分自身に関わるもの」として考えるための「橋渡し」になることがあります。

 

⑥卒業式の時点では測れないもの

そして、もう一つ忘れてはならないのは「時間」です。

人は、学校で学んだことの意味を、そのときすべて理解するわけではありません。
十代の頃には何とも思わなかった聖書の言葉が、四十代、五十代になって突然心に響くことがあります。

仕事で挫折を経験するとき。
子育てで苦労するとき。
大切な家族を失ったとき。
病気になったとき。
人生の意味が分からなくなったとき。

そんな機会に、かつて学校の礼拝で聞いた聖書の言葉を、何十年ぶりに思い出すことがあるでしょう。
実際、キリスト教系学校を卒業して何年も経ってから、教会を訪れる人もいます。

教育とは、本来、すぐに結果が出るものばかりではありません。
人の中に言葉を残し、問いを残し、記憶を残し、その意味が何年、何十年も後になって分かることがあるのです。

私たちがクリスチャンの体験談を聞くとき、しばしば感じるのは、一人ひとりの人生が神様の大いなる御手によって導かれていること、そして、信仰に至るにも、一人ひとりにふさわしい「時」があるということです。

 

まとめ――成長させてくださるのは神様――

では、「なぜキリスト教系学校を卒業しても、教会につながる人は少ないのか?」

私は、この問いに一つの答えを出すことは難しいと思います。
学校を選んだ理由も、キリスト教の受け止め方も、宗教への距離感も、卒業後の人生も一人ひとり違います。

聖書には、こんな言葉があります。

わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。
コリント人への第一の手紙3:6

私は、この言葉がキリスト教教育と信仰の関係を考えるうえで、とても大切だと思っています。

植える人、水を注ぐ人、そして成長させてくださる神様
植える人、水を注ぐ人、そして成長させてくださる神様

学校には学校の役割があります。
家庭には家庭の役割があります。
教会には教会の役割があります。

一人の教師の言葉が生徒の心に残ることもあります。
一人の友人との出会いが人生を変えることもあります。
一人の牧師との会話が、信仰を自分自身のこととして考えるきっかけになることもあります。

けれども、最終的に、人の心に蒔かれた種を芽生えさせ、育ててくださるのは神様です。

もしも、「何人がクリスチャンになったか」という数字だけでキリスト教系学校の教育の価値を測ろうとするならば、いつの間にか一人ひとりの人間を「成果」として扱ってしまいかねません。
それは、イエス・キリストの福音が教える人間に対する見方とは、根本的に異なります。

福音とは、恵み深い神様が私たちに与えてくださった喜ばしい救いの知らせです。
無理に信じさせるものではありません。
しかし同時に、曖昧にしてよいものでもありません。

だから私たちにできるのは、キリスト教の価値観だけではなく、その根にある福音を、できるだけ分かる言葉で、誠実に伝えること。
教会を訪ねてきた人を歓迎すること。
そして、すぐに結果を求めず、その人の人生に寄り添いながら、その時々の歩みの中で生まれる問いに誠実に向き合っていくことなのではないでしょうか?

「キリスト教系学校を卒業したのに、なぜ教会に来ないのだろう?」
その問いそのものは、とても大切な問いです。

しかし同時に、
「学校でキリスト教に触れる生徒たち一人ひとりに、どのように福音を伝え、一人ひとりが抱く問いに向き合うことができるだろうか。」
「その人たちが人生のどこかで神様を真剣に求めたとき、その問いを受け止め、分からないことは共に考えながら、できる限り誠実に答えようとする教会でいられるだろうか。」
そのように問いを置き直してみることも大切だと思うのです。


学校の礼拝で聞いた聖書のことばが、何十年後かに人生を支える一言になることがあります。
その福音の種を、まだ聖書を手にしたことのない人々へ、聖書を通してお届けしませんか。
あなたの一歩が、誰かの心に蒔かれる一粒の種となります。


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