
聖書の中で最も有名であり、同時に最も「納得がいかない」と言われるエピソードは、アダムとエバが禁じられた実を食べて楽園を追放された「失楽園」のストーリーです。
聖書を読んだことがあれば、一度はこう思ったことがあるかもしれません。
「たかが、木の実を一つ食べただけで追放なんて、神様ってひどすぎない?」
まるで、おやつを一つ盗み食いした子どもを、親が「お前はもううちの子じゃない!」と真冬の夜に裸で放り出すような理不尽さを感じるかもしれません。
しかし、実は失楽園の物語は、単に「神様が小さなミスに激怒した話」などではないのです。
この記事では、失楽園の「衝撃の真相」を三つのポイントから解説します。
①神様の優しさ
②「神のようになりたい」という欲望
③神様の限りない愛
この記事をお読みいただくと、神様がどんなに愛に満ちたお方で、なぜ追放という苦渋の決断をしたのか、その理由に納得していただけるはずです。
ぜひ、最後までお読みください。
クリスチャン家庭に生まれ育つ。趣味は映画、ハイキング、ボードゲームなど。 神学校を卒業後、牧師として働いてきました。現在はフリーランスのWebライターとして働きつつ、神様の愛を伝えるために様々な活動をしています。イエス様といっしょに生きる素晴らしさをお分かちできたら、うれしいです!
アダムとエバが「木の実を食べた」という行為だけを見れば、それは非常に小さな、取るに足らないミスに見えるかもしれません。
「ご飯前にお菓子を食べちゃダメよ」とお母さんに言われていた子どもが、それでもこっそり食べてしまった。
その程度のことに思えるかもしれません。
しかし、実際はそうではありませんでした。
そのことを理解するために、まず、アダムとエバが置かれていた状況を整理してみましょう。
旧約聖書の創世記によると、神様は六日の間に、人間が生きていける環境を造り、整えた上で、最後に人間を創造されました。
神様は人間を愛し、いつくしみ、大切に造られたのです。
そして、最初の人間アダムを「エデン」という楽園に置き、無限に近い自由と豊かさを与えました。
主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。」
創世記2:16
神様はケチなお方ではありません。
人間が幸せに生きられるように、すべてを与えておられたのです。
神様は本当に優しく、寛大なお方です。
ただし、唯一の例外がありました。
それが、園の中央にある「善悪を知る木」でした。
「しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。
創世記2:17
ここで語られている「死」は、単なる肉体の死だけではありません。
命の源である神様とのつながりが断たれ、霊的に死んでしまうことを、神様は警告されたのです。
ここで、こう思う方もいるでしょう。
「では、なぜ神様は、わざわざそんな木を園の中央に置いたのか。最初から善悪を知る木なんて置かなければ、アダムもエバもその木の実を食べる罪を犯さずに済んだのではないか」
この疑問を抱く方は少なくありません。
その答えは、神様が人間を「ロボット」ではなく、「自由意志を持つ存在」として造られたからです。
選択の余地がない自由は、本物の自由ではありません。
神様が善悪を知る木を楽園に置かれたのは、人間に「神様を愛し、信頼して、一緒に生きていく」ことを選ぶ自由を与えるためでした。
神様の定めた秩序とルールを守って、善悪を知る木から食べないこと。
それは、アダムとエバにとって「神様への愛と信頼を示すバロメーター」だったのです。
また、アダムたちには神様の秩序とルールを守る力がありました。
今の私たちには、「禁じられると、かえってやってみたくなる」という衝動があるかもしれません。
しかし、禁断の果実を食べる前のアダムは、まだ罪を犯して堕落しておらず、神様がお造りになったままのきよい状態でした。
ですから、神様の定めた秩序とルールを守ることができたのです。
しかも、神様はアダムに「何かをしなさい」と積極的に命令したわけではありませんでした。
神様がアダムに求めたのは、楽園で神様と一緒にずっと生きていくために、たった一つのルールを破らないということだけでした。
アダムたちは神様に愛され、優しくしていただいていました。
ですから、神様を信頼し、感謝して、神様のお決めになった秩序を守るべき十分な理由がありました。
ところが、アダムとエバは神様の愛と信頼を完全に裏切り、善悪を知る木から食べたのです。
それが、神様との関係を根本的に破壊し、霊的な死をもたらすと分かっていながら。
つまり、アダムとエバの失楽園の物語は、一見すると「厳しい神様が、人間のちっぽけなミスに怒った怖い話」に思えるかもしれません。
しかし、実際はそうではなかったのです。
では、なぜアダムとエバは、禁じられた実を食べたのでしょうか。
その経緯は、創世記3章に記されています。
蛇の姿をした悪魔がエバに近づき、こう尋ねました。
「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。
創世記3:1
第1のポイントで見たように、神様はアダムたちが園のどの木からでも取って食べることを許しておられました。
しかし悪魔は、神様が厳しくてケチなお方であるかのように、エバに思い込ませようとしたのです。
エバは答えました。
「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。
創世記3:2-3
一見すると、エバは神様がおっしゃった通りに答えているように見えます。
しかし、神様は「善悪を知る木からは取って食べてはならない」と命じましたが、決して「触れるな」とはおっしゃっていませんでした。
サタンの狙い通り、エバの心の中で、神様は実際よりもずっと厳しいお方になってしまっていたのです。
悪魔は、今度は明確に神様の言葉を否定しました。
「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それ(善悪を知る木の実)を食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。
創世記3:4-5
サタンは言外に次の意味を含ませていたと思います。
「神様はあなたたちを心配しているのではない。あなたたちが神様のような知恵を得て、神様の地位が脅かされるのを恐れているのだ」。
この悪魔の言葉によって、エバは神様の愛と善意を疑うようになりました。
「神様は私たちの幸せを考えているのではなく、わたしたちを縛り付けているだけなのかもしれない」。
それまでのエバは、神様の言葉に従って善悪を判断していました。
アダムとエバにとって、創造主である神様こそが善悪を決めるお方でした。
神様の言葉こそが、良いことと悪いことの唯一かつ絶対の判断基準だったのです。
しかし、もはやエバは、神様とその言葉を信頼する代わりに、自分自身の感覚や心に従って判断するようになりました。
「女(エバ)がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。」
創世記3:6
一方のアダムは、エバを止めるどころか、自分もその実を食べました。
なぜでしょうか。
アダムもまた、「神様のようになりたい」と思ったのです。
それまでのアダムは、神様の造られた世界で、神様に愛され、神様を信頼し、神様の定めた秩序とルールの中で生きてきました。
しかしアダムは、神様の限りない優しさを踏みにじり、神様のようになろうという傲慢で邪悪な欲望を抱いて、神様に故意に反逆したのです。
それは、こういう態度でした。
「神様、あなたの言うことなんて、もう信じません。あなたはもう要りません。今日から、私が私の人生の神になります。良いことも悪いことも、私が自分で決めます」。
アダムとエバが禁断の木の実を食べた行為は、神様からの完全な「独立宣言」であり、「裏切り」であり、「決定的な反逆」だったのです。
記事の冒頭で、子どもの盗み食いの話をしました。
お菓子を一つ盗み食いしただけで家を追い出されたら、それは理不尽でかわいそうです。
しかし、アダムとエバは子どもではありませんでした。
彼らは、選択の自由を与えられた大人でした。
彼らがしたことは、親友や夫婦の片方が、相手を故意に、完全に裏切ったというような、関係性の根本的な破壊だったのです。
その責任は、100%人間の側にありました。
裏切られた側である神様が、アダムとエバを楽園から追放しても、誰も神様を責めることはできないでしょう。
しかし、ここでこう思う方もいるかもしれません。
「アダムとエバは悪魔に騙されたのだから、かわいそうな人たちなのではないか。悪いのは悪魔ではないのか」
確かに、サタンも悪いのです。
そしてサタンは、きちんと神様に裁かれます。
実際、アダムよりもエバよりも先に、最初に神様から裁かれます。
ただし、禁断の果実を食べる前のアダムとエバには、サタンの誘惑さえはねのけることができる十分な力がありました。
では、どうして悪魔の誘惑に負けたのでしょうか。
それは、結局のところ、自分自身の欲望に負けたからです。
サタンにそそのかされて善悪を知る木の実を食べたとはいえ、その選択をしたのはアダムとエバ自身でした。
ですから、それは100%人間自身の責任だったのです。
そういうアダムとエバを、神様が楽園から追い出すだけでなく、直ちに滅ぼしたとしても、不当とは言えなかったでしょう。
しかし、神様は全く正反対のことをなさいました。
私たちが心から愛し、信頼していた家族や親友から裏切られたなら、すぐに赦せるでしょうか。
愛を注いでいた相手に裏切られた直後、神様が示されたのは、怒りではありませんでした。
それは、驚くべき愛でした。
敵をも愛する愛だったのです。
神様は愛に満ちたお方です。
しかし同時に、正しく、きよいお方でもあります。
ですから、アダムとエバの罪を罰しないわけにはいきませんでした。
しかし、その罰は、彼らが犯した罪に比べるなら、はるかに軽く、慈悲深いものでした。
アダムとエバ、そしてその子孫である私たち人類は、「労働」と「出産」の苦しみを経験するようになりました。
そして、いつか肉体の死を迎えるようになりました。
ここで、こう思う方もいるでしょう。
「どこが軽いのか。十分重い罰ではないか」。
確かに、私たちから見れば、労働の苦しみ、出産の苦しみ、そして死は、非常に重い現実です。
しかし、アダムとエバは創造主に反逆したのです。
本来であれば、正義と公正な裁きによって、即座に滅ぼされても仕方ありませんでした。
彼らのしたことの重大さに比べるなら、アダムとエバは、はるかに軽い罰で済ませていただいたのです。
アダムとエバへの神様の裁きを見ると、「神様は厳しいお方だ」と感じる方が多いかもしれません。
しかし実は、神様はその時にさえ、あわれみ深いお方だったのです。
実は、神様はアダムとエバを楽園から追放することで、人間が最悪のシナリオを回避できるようにしてくださったのです。
エデンの園の中央には、善悪を知る木のほかに、もう一つの木がありました。
それが、その実を食べれば永遠に生きられるという「命の木」です。
また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。
創世記2:9
神様がエデンの園に命の木を植えられたのは、やがてアダムとエバにその実を食べさせて、永遠の命を与えるおつもりだったからです。
ところが、アダムとエバが罪を犯した後で、神様はこうおっしゃいました。
「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。
創世記3:22
そして、アダムとエバを楽園から追放されたのです。
なぜ神様は、アダムとエバが罪を犯した後には、彼らが命の木から取って食べることを危惧されたのでしょうか。
神様がお造りになったままの、きよく良い状態の人間が永遠に生きるなら、それは人間にとって幸せなことでしょう。
神様に愛され、神様を愛し、人間同士も愛し合って生きる。
それは本当に素晴らしいことです。
しかし、罪を持ったまま永遠に生きるなら、そこに待っているのは「人間同士が争い合う永遠の生き地獄」です。
実際、アダムとエバは、禁じられた木の実を食べたことを神様に謝りませんでした。
まずアダムは、エバに責任転嫁しました。
しかも、エバを妻として与えた神様にも責任を転嫁しました。
そしてエバも、蛇に責任をなすりつけました。
自己中心に変わり果てた人間の醜い姿が、そこにさらけ出されたのです。
お互いに責め合い、争い合う。
私たちもよく知っている人間の現実が、そこから始まったのです。
もし、このような有様のまま、決して死ぬこともできず、永遠に生き続けるならどうでしょうか。
それは「永遠の命」どころか、「永遠の地獄」ではないでしょうか。
神様は、人間が「罪を抱えたまま永遠に生きる」という最悪の悲劇的シナリオを回避するために、あえて楽園から遠ざけられたのです。
つまり、「楽園追放」は、一般に誤解されているような、神様が人間に見切りをつけて見捨てた出来事ではありませんでした。
それは、人間をさらなる悲劇から守るための、神様の「苦渋の決断」でした。
そして、そこには神様の愛があったのです。
その優しい愛のしるしとして、神様はエデンの園から出ていかなければならないアダムとエバに、自ら皮の着物を造って、着せてくださいました。
神様は、アダムとエバを追い出す前に、救い主を送る約束をしてくださいました。
「わたし(神様)は恨みをおく、おまえ(悪魔)と女(エバ)とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。
創世記3:15
一見、難しそうな言葉です。
しかしこれは、やがて「女のすえ」、つまりエバの子孫から救い主が生まれ、悪魔を打ち破るという約束です。
そして、人間は再び神様と一緒に生きられるようになるのです。
神様は、アダムとエバに裏切られた直後、彼らを楽園から追放する前に、この慰めと希望に満ちた約束をしてくださいました。
なんという驚くばかりの愛でしょうか。
神様が約束されたその救い主こそ、イエス・キリストです。
悪魔はイエス様を十字架へと追いやり、創世記3章15節が語るように、「彼のかかとを砕き」ました。
それは相当なダメージだったでしょう。
しかし、イエス様はその十字架の死と三日目の復活によって、罪からの救いを成し遂げ、サタンに勝利されました。
「彼(救い主イエス・キリスト)はおまえ(サタン)のかしらを砕き」と神様が約束された通り、イエス様は悪魔に勝利されたのです。
だからこそ、イエス様を救い主と信じるなら、今、私たちの罪は赦されます。
そして、やがて完全にきよめられ、神様と一緒に、今からいつまでも生きることができるのです。
新約聖書は、イエス様がこの世界に来られた目的を、次のように語っています。
「神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである。」
ヨハネの第一の手紙3:8
創世記の失楽園の物語の中で約束された救い主イエス・キリストは、この世界に確かに来られ、十字架と復活によって悪魔のわざを打ち破ってくださったのです。
この素晴らしく、喜ばしいイエス・キリストの救いの知らせ、つまり福音は、神様が楽園から出ていくアダムとエバに造ってくださった「皮の着物」によっても、あらかじめ表されていました。
この「皮の着物」を造るためには、罪のない動物が犠牲とならなければなりませんでした。
これは、私たちを罪から救うために、十字架で血を流されたイエス・キリストの犠牲を、あらかじめ表していたのです。
アダムたちに神様が着せてくださった皮の着物。
それは、愛に満ちた神様ご自身が、イエス様の十字架の犠牲によって、私たち人間の罪深さ、恥、恐れを覆い、救ってくださるという恵み深い真理を表していたのです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
いかがでしたか。
この記事では、聖書の最も有名なお話であり、そして最も「納得がいかない」と言われる、アダムとエバの「失楽園」のストーリーについて解説してきました。
「木の実一つで追放なんてひどい」
そう感じる方は少なくありません。
しかし、その「真相」は全く違います。
第一に、神様は優しく、愛に満ちたお方です。
しかし、アダムとエバは、与えられた自由を、神様への愛と信頼のためではなく、反逆のために悪用しました。
第二に、アダムとエバは「神のようになりたい」という傲慢な欲望のままに、禁断の木の実を食べました。
それは、神様との愛と信頼の関係を決定的に破壊する行為でした。
第三に、楽園追放は、怒りに任せた単なる罰ではありませんでした。
罪の状態で永遠に生きるという最悪のシナリオから私たち人間を守るための、神様の愛に満ちた配慮だったのです。
そして、神様は、私たちを悪魔と罪の奴隷状態から解放する救い主を約束してくださいました。
「失楽園」は、アダムとエバが罪を犯し、神様が私たち人類を見捨てた物語ではありません。
一見ひどく見える失楽園の物語には、どんなに裏切られても、人間を愛し、何としてでも救おうとする、神様の深い真実の愛が隠されているのです。
この記事をお読みになったあなたが、「神様、ひどい」から、「そこには深い愛があったんだ」という思いに変わっていたら、これほどうれしいことはありません。
私たちは今、エデンの園の外側の世界を生きています。
この世界には、さまざまな苦しみがあります。
争いがあります。
孤独があります。
そして最後には、死が待っています。
「神がいるなら、なぜこんなに苦しい世界なのか」
そう言いたくなる時もあるでしょう。
もしあなたが今、人生の平安を失い、孤独や苦しみの中にいるなら、どうぞ思い出してください。
聖書の物語は「失楽園」で終わってはいません。
神様は、私たち人間がもう一度、神様と一緒に生きられるように、救い主を送る約束をしてくださいました。
そして約2000年前、神様の御子であり救い主であるイエス様を、この世界に送ってくださったのです。
イエス様は十字架で命を捨ててくださいました。
それは、私たち人間が神様に愛され、神様を信頼して生きる、本当に幸せな人生を、今から永遠に生きることができるようにするためでした。
神様は今、あなたが「本当の故郷」である神様のみもとに帰ってくるのを、両手を広げて待っておられます。
神様の愛と救い主イエス様についてもっと知りたいと思われたなら、ぜひ他の記事や聖書自体もお読みください。
また、お住まいの地域のキリスト教会を訪ねてみてください。
あなたが神様の愛を知り、本当に幸せな人生を送れますように心から願っています。
一見ひどく見える「失楽園」の物語にも、人を決してあきらめない神様の愛が隠されていました。
その愛と希望をまだ手にしていない人々へ、聖書を通してお届けしませんか。
あなたの一歩が、誰かにとって「本当の故郷」への帰り道を照らす光となります。
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