カラヴァッジョの宗教画から読む聖書

劇的な明暗表現と真に迫る写実性で一世を風靡したバロック絵画の巨匠カラヴァッジョ。僅か38年の生涯の間に、《聖マタイの召命》《聖パウロの回心》など革新的な作品を数々残し、後のバロック絵画に絶大な影響を及ぼしました。しかし、粗暴な性格から何度も暴力事件を起こし、挙げ句の果てには殺人犯として追われる身に。
今もなお人々を惹きつけてやまないカラヴァッジョですが、その魅力は画家自身の波乱万丈な人生と切っても切り離せません。今回はそんなカラヴァッジョの宗教画を、聖書のエピソードとともにご紹介します。


都倉
Writer Profile都倉

ライター/編集者、時々漫画家。プロテスタント系の高校を卒業後に渡米。さまざまなマイノリティが住むニューヨークに滞在した経験から、差別や貧困・格差などの社会問題に関心を持つようになり、現在の活動の軸となっている。帰国後ずいぶん経ってから再び教会へ行くようになり、2022年のクリスマスに受洗。好きなものは大型犬。

 

カラヴァッジョの生い立ち|北イタリアからローマ、そして南イタリアへ

カラヴァッジョの肖像画
カラヴァッジョの肖像画

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオは、1571年に北イタリアのロンバルディア地方で生まれました。通名である「カラヴァッジョ」は出生の地であるミラノ近郊の小さな町の名前です。
早くから画家を志したカラヴァッジョは1584年にミラノへ出て、ペテルツァーノのもとで4年間修行をした後、1592年にローマへと旅立ちました。

この頃、カトリックの総本山であるローマでは、1600年の聖年(ローマ巡礼者に特別の赦しを与える祝年)を迎えるにあたって、教会の建設や街道の整備などが急がれていました。記録によると、1600年には300万人もの巡礼者がローマを訪れたといわれています。
そんな時期に永遠の都ローマにやってきたカラヴァッジョは、デル・モンテ枢機卿に見出され、彼の屋敷に住みながら《リュート弾き》《バッカス》などの作品を残します。
そして、1599年から1600年にかけてサン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂を飾る《聖マタイの召命》《聖マタイの殉教》を制作し、公的なデビューを果たしました。

この連作によって一躍ローマの人気画家となったカラヴァッジョは、教会や貴族から次々と発注を受けて、《聖トマスの不信》《キリストの捕縛》《キリストの埋葬》など数々の傑作を残します。

カラヴァッジオの絵画

左:キリストの埋葬 右上:キリストの捕縛 右下:聖トマスの不信

ところがカラヴァッジョは生来の粗暴な生活が災いし、度々傷害などの事件を起こしていました。ついに1606年、乱闘の末に殺人を犯して死刑宣告を受けてしまいます。
カラヴァッジョはローマを離れ、逃亡生活を送りながらも制作をつづけます。しかし、再びローマの地を踏むという悲願は叶わず、1610年に熱病に倒れ、ポルト・エルコレで38年の短い生涯を閉じました。

 

カラヴァッジョの宗教画

カラヴァッジョの特徴は、鑑賞者の心を揺さぶる劇的な明暗表現と、真に迫る写実性です。聖書を題材とする宗教画の数々は同時代のカトリック教徒たちの信仰心を強く呼び起こし、400年の時を経た今日も巡礼者の心を捉えつづけています。
代表的な宗教画を何点かご紹介します。

聖マタイの召命

聖マタイの召命

《聖マタイの召命》は、1600年、サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂で公開されました。本作を含む使徒マタイの連作で、カラヴァッジョは一夜にしてローマ中に名を轟かせることになります。
マタイによる福音書9章9節「マタイの召命」の記事を描いた作品です。

さてイエスはそこから進んで行かれ、マタイという人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。
(マタイによる福音書9:9)

イエスが活動した時代、現代のイスラエル・パレスチナ一帯はローマの支配下にありました。ユダヤの人々はローマが課す重い税に苦しんでおり、ローマの手先となって同胞のユダヤ人から税を取り立てる徴税人は忌み嫌われる存在でした。イエスはそんなマタイを自分の弟子として召し出します。マタイはイエスに呼びかけられた瞬間に目覚め、これまでの生き方と訣別して、イエスに従うことを選びます。

画面の右側、光を背に立ち指を差しているのがイエスです。ではマタイはどの人物なのでしょうか。これには諸説あり、中央の自分を指している髭を蓄えた男性がマタイであるとする説、画面左端でうつむいて座っている若者がマタイであるという説があります。
薄暗い静謐な画面の中に、マタイが召命に従う直前の劇的な瞬間が描かれており、鑑賞者の心に訴えかける作品です。

《聖マタイの召命》は礼拝堂の左手の壁に設置されています。右手の壁にはマタイが処刑される瞬間を描いた《聖マタイの殉教》が、正面には天使の霊感を受けて福音書を執筆するマタイを描いた《聖マタイと天使》が設置されています。

サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂

サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂
Geobia, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

ダマスカスへの途中での回心

ダマスカスでの回心

パウロはキリスト教史でもっとも大きな役割を果たした人物の一人です。三度の宣教旅行を行い、異邦人に宣教しながら各地に教会を設立していきました。新約聖書にはパウロが各地の教会に書き送った手紙類が収録されており、それらは「パウロ書簡」と呼ばれています。彼なくしてキリスト教の布教はあり得なかったといっても過言ではありません。
そんな偉大な宣教者パウロですが、もともとはパリサイ派という熱心なユダヤ教徒の一派に属しており、キリスト教徒を迫害する立場にありました。あるときパウロは、イエスに呼びかけられます。

さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞えたが、だれも見えなかった。サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。
(使徒言行録9:1-9)

イエスに呼び掛けられたサウロ(サウロはパウロのヘブライ語名)は、盲目のまま同行者たちに手を引かれてダマスコに向かいます。一方、アナニアという人物はサウロのために祈るようにと主の命を受けました。
ダマスコに滞在中のサウロを訪ね、アナニアが彼の上に手を置いて祈ると、たちまちサウロの目からうろこのようなものが落ち、元通りに見えるようになります(「目から鱗が落ちる」という慣用表現は聖書のこの箇所が由来です)。

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カラヴァッジョの《ダマスカスへの途中での回心》では、イエスに呼びかけられたパウロが落馬して倒れた場面が描かれています。伝統的な描き方では、イエスの姿やパウロに同行する者たちの姿も共に描かれますが、カラヴァッジョは大胆にも、パウロと馬、馬丁のみで画面を構成しています。この構図によって、パウロの回心は彼の心の中で静かに起こった内面的なものであるという解釈も可能だとされています。

本作は礼拝堂の右側の壁に展示されており、上部の窓から帯状に射し込んだ光を倒れ込んだパウロの両腕が抱き留めるような効果が生まれるそうです。カラヴァッジョは、礼拝堂の空間で絵画を見上げたときの効果まで設計してこの構図を選んだのかもしれません。

サンタ・マリア・デル・ポポロ教会

サンタ・マリア・デル・ポポロ教会
Caravaggio, CC BY 2.0 , via Wikimedia Commons

エマオの晩餐

エマオの晩餐

《エマオの晩餐》は1606年に制作された作品です。
エルサレムから少し離れたエマオという街でイエスが姿を現すというエピソードを描いたものです。
イエスは磔刑に処され、3日後に復活するのですが、弟子たちはそれを信じられないでいました。エルサレムを離れてエマオへ向かう途中、イエスと共に歩き始めますが、弟子たちはそれがイエスだと気づきません。道中で食事をし、イエスがパンを取って裂き彼らに渡したとき、弟子たちははじめてそれがイエスであることに気づきます。彼らが気づくと、イエスの姿は見えなくなってしまいます。

この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、このいっさいの出来事について互に語り合っていた。語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。
(中略)
それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。
(ルカによる福音書 24:13-32)

カラヴァッジョはエマオの晩餐をテーマに2点の作品を制作しており、こちらはその2作目に当たります。1601年に制作された第一作目と比較すると、大きく様式が変化しているのが見て取れるのではないでしょうか。二作目では人物の動作が最小限に抑えられ、半ば闇の中に沈んでおり、静謐な雰囲気が感じられます。

エマオの晩餐

1601年に制作された『エマオの晩餐』

カラヴァッジョは逃亡中にこの作品を制作しました。この時期以降、作品はより陰を強め、内省的な雰囲気を帯びていくようになります。

ゴリアテの首を持つダビデ

ゴリアテの首を持つダビデ

《ゴリアテの首を持つダビデ》はカラヴァッジョの絶筆となった作品です。
イスラエルの羊飼いの少年ダビデが、敵対していたペリシテ人の巨人兵士ゴリアテを投石のみで倒し、その首を斬り落とすという場面を描いています。
本作で目を引くのは、ダビデよりはダビデが手にするゴリアテの首ではないでしょうか。光を失った虚な目と首から滴り落ちる血が凄惨な印象を与えます。ダビデは眉を寄せてどこか悲しげな表情を浮かべ、ゴリアテを憐んでいるようにも見えます。
実はこの首を落とされたゴリアテは、カラヴァッジョ自身の自画像です。カラヴァッジョはしばしば登場人物の一人として自画像を描きましたが、死の直前に描いた本作で、ゴリアテの生首に自分を重ね合わせているのです。
逃亡生活を送るカラヴァッジョは、教皇の甥であるボルゲーゼ枢機卿の仲裁で教皇から恩赦を得ようと考えていました。断首された自画像で改悛を示す意図があったと考えられています。

しかし、カラヴァッジョはついにローマの地を踏むことはなく、1610年に熱病に倒れ、波乱万丈な人生に幕を下ろしました。

 

まとめ

カラヴァッジョは、心を揺さぶる宗教画を描きつづける一方で、大小の犯罪を重ねつづけました。その生涯は、どうしようもない肉の弱さに打ちのめされながら、神の憐れみの光にすがることの連続だったのではないでしょうか。そのことがより作品の魅力を引き立てているのかもしれません。

本記事でご紹介した以外に、世俗絵画も含む数々の傑作を残しています。聖書の物語を知った上で鑑賞するとより胸に迫ってくるものがあるのではないでしょうか。ぜひ聖書片手にカラヴァッジョの作品を味わってみてください。


参考文献:
宮下規久朗(2007)『カラヴァッジョへの旅 天才画家の光と闇』角川選書
宮下規久朗(2010)『カラヴァッジョ巡礼』新潮社
コンスタンティーノ・ドラッツィオ/著、上野真弓/訳(2017)『カラヴァッジョの秘密』河出書房新社

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